古琵琶湖層からなる丘陵

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阿星山麓から旧東海道の背後にかけて広がり、丘陵を形成している地層は湖成(こせい)層である。この地層は、琵琶湖の前身をなす古琵琶湖が堆積させたものである。
 古琵琶湖は、五〇〇万年位前の新生代第三紀末の鮮新世に、南方の伊賀上野付近に誕生したが、その後南方から地盤が隆起しだしたため、徐々に北方へと移動し、石部付近も通過し、三〇万年位前にほぼ現在の位置に達した。さて、昭和六十三年(一九八八)夏に甲西町の野洲川河床から象や鹿の足跡化石と埋没林が多数発見された。調査の結果二〇〇万年ほど前の地層であり、当時湖は甲賀町や甲南町付近に達しており、その湖に注いでいた川の岸辺であったと推定された。石部町付近が湖となり、その底に砂や礫を堆積していった時期は一五〇~一〇〇万年前のことである。しかし、その後も隆起が続いたため、湖は干上り、さらに今日みられるような高い位置を占める丘陵を形成するに至ったのである。
 この古琵琶湖層の厚さは、一五〇メートル位であり、地層は南から北西へ向って傾斜している。この傾斜の方向は、南方の阿星山地側の隆起、さらには現琵琶湖方向への傾動を示している。
 ところで、現在石部周辺の丘陵は、落合川や宮川によって開析され、谷底低地を形成、そこを中心に古くから水田や集落が立地してきたことは前記した。このことを示すように丘陵地中央部には六反(ろくたん)古墳が築かれており、さらに丘陵の北東端の見晴らしの良い位置には宮の森(みやのもり)古墳が造られ、北西方の小山の中腹にも柿ヶ沢(かきがさわ)古墳が造られている。一方、開析の遅れた丘陵面は、水がかりが悪く開墾に不向きであったため、最近まで雑木林におおわれてきたが、戦後麻田(おうだ)地区のように引揚者による開墾が始まり、さらには高度成長期を迎えたころから日本道路公団試験所植栽場や、日本精工などの工場が進出。東寺団地、西寺団地をはじめとする住宅や県立近江学園、社会福祉法人椎の木会の落穂寮、大木会のもみじ寮・あざみ寮・一麦寮などの施設が続々と丘陵面に建設されている。現在、石部町では丘陵地域開発の時代を迎えているともいえる状態である。

写4 北浦付近の古琵琶湖層 かつて、湖(古琵琶湖)が石部付近をおおっていたころ、その湖底に堆積した地層である。このため、粘土・砂・礫(レキ)からなる地層はほぼ水平に堆積している。その状態がここではよくわかる。


図4 南北地質模式断面図