写9 柿ケ沢古墳出土遺物
(東京国立博物館所蔵)
一方、石部町大字西寺字六反の日本道路公団試験所植栽場内に所在する六反古墳群は、現在、一基のみを残すところとなっているが、本来は数基で構成されていたとみられる。当古墳は昭和三十三年に一度発掘調査が行われ、その時の出土遺物は石部町歴史民俗資料館に保管されている。
古墳は阿星(あぼし)山から派生する広野(ひろの)川によって形成された扇状地の中央部付近(標高約一九〇メートル)に位置し、そこから石部町の平野をかなり眺望することができる。墳丘の大部分は消失して石室天井石が露出している。裾部は北側に周濠の一部とみられる幅約二・五メートルの溝がめぐり、直径一五メートル以上の円墳(えんぷん)と推定される。
石室は扇状地と直交するように構築され、主軸方位はN六三度Eを示し、北東側に入口をもつ。右側壁の大部分は崩壊しており、羨道の石材もかなり抜き取られているが、石室の全体構造は把握することができる。なお、出土遺物に十一世紀以降の遺物が含まれることから、平安時代後葉ごろに再埋葬されている。
被葬者を安置する玄室(げんしつ)は、両側壁に袖石をもつ両袖式の横穴式石室である。規模は玄室幅一・六メートル、長さ四・三二メートル、高さ一・六メートル以上を測り、羨道は幅一・一二メートル、長さ四・三メートル以上である。奥壁は基底部に二石を縦長に立てて、それより上部は横長に小口積とする。左側壁は基底部に五石を並べ、奥壁と接する部分のみ横積みにする。二段目からは基底石より小振りの石を二から三段横積みにする。右側壁は左側と同じ構築法であるが、袖石との接点は小型の石を五段積む。これは袖石を最初に置き、奥壁部分から順に側壁を積み上げてきたことから、詰め石状に調整したことによる。袖石は一メートル以上の巨石を立積みにし、左側は〇・一五メートル、右側は〇・二五メートル突出さす。天井石は石室に直交するように横架けし、玄室部で三石、羨道部で三石以上を架け、その間隙を小型の詰め石によって埋めている。普通、羨道の天井は袖石部分から玄室より一段低くなるのだが、当古墳の天井は玄室と羨道は水平になっている。なお、天井の架構方法は一般的には奥から入口方向へ架構すると考えられている。
写10 六反古墳横穴式石室内部
同古墳遠景
図22 六反古墳石室実測図
各遺物の出土状況は『石部町史』によると、高杯(たかつき)と提瓶(ていへい)は奥壁右側にあり、その少し内側に杯身(つきみ)と杯蓋(つきぶた)が位置し、中央付近に銀環と平安時代の遺物が存在していたようである。当初の副葬品には須恵器の高杯(現在不明)、杯身三点・杯蓋三点(①~⑥)、提瓶一点(⑦)、銀環三点(⑧~⑩)がある。銀環は所々に銀メッキを残す。杯身は立ち上りの内傾する口縁部をもち、底部外面にはヘラ削りを施すものと未調整のものとがある。杯蓋は天井に丸味をもち、口縁端部に面を残す。堤瓶は口縁外面に二条の沈線をめぐらし、肩部にリング状の取手をもつ。なお、外面に濃緑褐色の自然釉(ゆう)が付着している。銀環は大小二種類あり、大きいものは直径三・二五センチメートル、小さいものは直径二・七五センチメートルある。これら当初の副葬品は六世紀の末葉ごろに比定される。
石室再利用に伴う遺物は土師器(はじき)小皿二点(⑮⑯)、黒色(こくしょく)土器椀(わん)二点(⑪⑫)、瓦器(がき)椀二点(⑬⑭)である。土師器小皿は口径約八・五センチメートル、器高約一・六センチメートルのもので、内面を横ナデし、口縁部を強くナデする。黒色土器椀は内面と口縁外面に炭素を吸着させ、高い高台を付すものと低いものとがある。高い高台を付ける椀は、口縁内面に一条の沈線をめぐらし、内面に格子状のヘラ磨きを施す。瓦器椀は内面、口縁部外面を横ナデし、内面をヘラ磨きするものと内外面をヘラ磨きするものがある。底部内面見込部には螺旋(らせん)状のヘラ磨きを施す。再利用の遺物の時期は黒色土器椀は十一世紀後半に、土師器小皿と瓦器椀は十二世紀中ごろから十三世紀にかけての年代が考えられる。
図23 六反古墳出土遺物実測図
写11 六反古墳出土遺物
以上のことから六反古墳は古墳時代後期、六世紀の末ごろに年代比定できるものであり、群集墳が最も盛行する時期に相当する。さらに、平安時代後期に横穴式石室を再利用した埋葬が行われている。
なお、石部町内には宮の森古墳、柿ケ沢古墳群、六反古墳群のほかに、吉姫神社裏山の尾根上に古墳状の低い高まりが数ケ所、また、六反古墳群の西方にある丸山の尾根上にも数ケ所古墳状の高まりが認められることから、まだかなりの古墳が存在すると考えられる。
このことから、弥生文化のところで述べたように、石部町内には確認されていない遺跡が数多く存在する可能性があり、今後、詳細な分布調査を行うことによって、町内の古代はより解明されることと思われる。