大宝(たいほう)元年(七〇一)に制定、その翌年に全面施行された大宝律令(りつりょう)によって、わが国古代の律令体制が本格的に始まった。律令体制とは、律・令・格(きゃく)・式(しき)などの法令に基づく公地公民制を根幹とする中央集権国家体制をいう。
律令国家が支配する人民を「公民(こうみん)」と呼び、戸(こ)(家族集団)を編成した。戸ごとの人口台帳である戸籍は、六年ごとに作成し、口分田班給(くぶんでんはんきゅう)の台帳ともなした。これに対して年々の人口の変動を把握し、徴税の台帳として用いられる計帳(けいちょう)は毎年作成される。この戸籍・計帳は国家が公民を個別に支配するための基礎資料であった。
また律令制では、すべての土地は国家の所有する「公地」であり、公民には班田収授(はんでんしゅうじゅ)法によって口分田を班給した。すなわち六歳以上の良民(りょうみん)の男には二段(たん)(約二三アール)、女にはその三分の二(一段一二〇歩)を班給し、死後これを収公した。班田は六年に一度行い、受給資格を得た者に口分田を班給し、死亡者の口分田を収公した。
公民は諸種の租税を負担した。律令制の租税は、大きく分けると、(一)稲穀(租)、(二)物産(調(ちょう)・庸(よう))、(三)力役(りきえき)(雑徭(ぞうよう)・その他)の三系列になる。(一)は土地税で、「租」は口分田一段に対して稲二束二把を課した。租の率は、収穫量の約三パーセントに当たる。春夏に稲を貸し付け、秋に五割ないし三割の利稲を取る「公出挙(くすいこ)」や、飢饉に備えて戸の等級に応じて粟を徴収する「義倉(ぎそう)」も租税とみなされる。
(二)は人頭税で、第一に「調」。成年男子に賦課され、正調と副物の二種がある。正調は絹・〓(あしぎぬ)・綿・布などの産物を徴収した。その量は品目によって異なるが、正丁(せいてい)(二一~六〇歳)を一とすれば、次丁(じてい)(六一~六五歳の老丁と軽度の身体障害をもつ正丁)は二分の一、中男(ちゅうなん)(一七~二〇歳)は四分の一の割合で、副物は正丁のみが負担した。なお、京・畿内はそれぞれの半分である。第二に「庸」。本来力役として正丁・次丁に課せられる歳役(さいえき)(正丁一〇日、次丁五日)の代納物として布・綿・米・塩などを徴収するが、京と畿内は免除された。
(三)もまた成年男子にかかる人頭税で、一年間に正丁六〇日、次丁三〇日、中男一五日を限度として国司が土木などの労役に駆使した。このほか、五〇戸一里ごとに正丁二人が徴発されて、在京の諸司の雑役に服する「仕丁(しちょう)」、正丁三人に一人の割合で選ばれて、一部は上京して宮城内・京中の警備にあたる「衛士(えじ)」、一部は九州の防備にあたる「防人(さきもり)」、それ以外は軍団に交替勤務する「兵士」などがあった。
地方行政組織は、国・郡・里の行政単位に分け、それぞれ国司・郡司(ぐんじ)・里長(りちょう)を置いた。国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官および史生(ししょう)・博士・医師(くすし)などの雑任からなり、国司の四等官と史生は中央から派遣された。郡司も大領(たいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官からなり、博士・医師および郡司と里長は現地在住者が任用された。
国司の職掌は、神祇祭祀、戸籍・計帳の作成、人民の教導、農業の奨励、管内の糺察、土地の管理、訴訟の受理と裁判、租庸調の徴収、官倉の管理、雑徭の徴発、兵士の点定、兵器の管理、駅馬伝馬の管理、僧尼寺院の把握など、地方の行政・警察・裁判・軍事にわたる広範な権限をゆだねられている。これらすべてを一〇人足らずの国司で執行できるはずはなく、実際は国司の下で各郡の郡司が担当したとみてよい。郡司に大化前代の国造(くにのみやつこ)の系譜を引く豪族層が任命されたのは、公民支配に際して旧来の首長に依存する所が大きかったことを意味している。さらに里長は、郡司の下で公民の日常生活を監察し、納税を督促した。