租は穂つきの稲(頴(えい))で徴収することになっているが、天平(てんぴょう)年間(七二九~七四九)の正税(しょうぜい)帳によれば、穂から落とした籾(穀)で収納し、そのほとんどを「不動穀」と名付けて備蓄している。地方の財政は公出挙によって賄われているのが実情であった。ただし、特定国の租の一部は米にして、京に運び、諸司官人の食糧にあてた。これを「年料舂米(しょうまい)」といい、運搬は納税者の負担であった。近江国は都に近いこともあって、年料舂米の輸納国に指定されており、『延喜式(えんぎしき)』には、内蔵(くら)寮に五〇石、民部省に五〇〇石、大炊(おおい)寮に一、二〇〇石・糯(もちごめ)三〇石を納める規定となっている。
律令制では水田が水旱虫霜の害のために五割以上の損失を受けた場合は租を免じ、七割のときは租・調を免じ、八割以上の損害であれば租・調・庸ともに免除する規定だが、実際の運用において一定の範囲以内では国司の裁量に任せた。史書に租税の減免のことが記載されるのは、天災とか国家の慶弔などに際して、特に詔勅を発して租とか調・庸とかを減免した場合に限られ、またこの種の減免は天皇が行幸した途中の国郡に限って行われることもあった。たとえば、延暦(えんりゃく)二十二年(八〇三)の閏(うるう)十月、桓武(かんむ)天皇が近江の蒲生野(がもうの)に行幸した時、栗太・甲賀・蒲生の三郡の田租が免除されている(『日本紀略(にほんきりゃく)』)。
調の品目は、絹・〓・糸・綿・布などの繊維品を基本としながらも、雑物といわれる鉄・塩あるいは魚介・海藻類におよぶ郷土の特産物であり、庸もまた布・綿・米・塩など郷土の産物であった。賦役令(ぶやくりょう)には調の雑物の例示に「近江の鮒(ふな)」をあげている。近江国では実際にどのような品目を貢納したか分からないが、『延喜式』には、近江一国が輸納すべき調・庸の品目と数量を、「調 二色綾(あや)三十疋(ひき)、九点羅(ら)二疋、白絹十疋、緑帛(はく)二十疋、帛百三十疋、柳筥(やないばこ)一合、缶(ほとぎ)六十口、酒壺(さかつぼ)八合、燼瓮(まくそつぼ)四口、水椀(みずまり)四百八十合、大筥坏(はこつき)一千三百六十口、小筥坏百六十口、深坏(ふかつき)六十口、麻笥盤(おけばん)二十四口、自余は絹を輸(いた)せ。韓櫃(からびつ)三十三合、自余は米を輸せ。中男作物 黄蘗(きはだ)三百斤、紙、胡麻(ごま)油、醤鮒(ひしおふな)、阿米魚鮨(あめうおずし)、煮塩年魚(にしおあゆ)」と規定している。調庸制の形骸化などで数量は変化したと思われるが、その品目は、湖国の古代の産業を調べるのに参考となるであろう。
和銅(わどう)元年(七〇八)に「和同開珎(わどうかいほう)」を鋳造した後、蓄銭叙位(ちくせんじょい)令を発し、諸国の調・庸を銭納に切りかえるなど、銭貨の流通を促進するための政策を講じたが、そのひとつとして養老(ようろう)六年(七二二)には近江など畿内に近い八国の調を銭で納めさせている。近江国は京・畿内についで銭貨の流通が期待できたからであろう。
このほか、特殊な税制として贄(にえ)があった。贄とは、朝廷の儀式や天皇の食膳に供される山海の食物で、主として御厨(みくりや)から貢納される。御厨とは、「鵜飼(うかい)」「江人(えびと)」「網引(あびき)」と称する漁民の集団を特定したものであって、彼らは水産物を贄として貢納する代わりに調と雑徭が免じられている(『令集解(りょうのしゅうげ)』)。近江国には栗太郡の勢多、滋賀郡の和邇(わに)、坂田郡の筑摩に御厨が、栗太郡の田上に御網代(みあみしろ)があって、琵琶湖および瀬田川の年魚(鮎)・鮒・鱒(ます)・阿米魚(雨魚、ビワマスの別称)・氷魚などを漁獲し、これらを贄として貢進したのである。
写13 木簡(信楽町宮町遺跡出土) 木簡は紙に記した文書と同様に伝達文書・帳簿などとして使用されたり、貢進物の荷礼として使用されたりした。写真(右)は「天平十□年」と判読でき、(左)は、「奈加王」という王名が確認できる(信楽町教育委員会提供)。