一般に郡衙と駅家(うまや)の所在は一致もしくは近接する場合と、そうでない場合とがあり、一概に決められない。かりに前者のケースを想定しても、郡衙がすでに存在したであろう奈良時代の東海道の駅路は、平城京から山背(やましろ)国の南部を東行し伊賀国へ向かうルートをとり、甲賀郡には駅家は設けられてはおらず、平安時代に長岡京・平安京から近江国を通って伊賀国へ向かうルートに変わり、始めて甲賀郡に駅家が設けられたが、それも仁和(にんな)二年(八八五)に「阿須波(あすは)道」(土山から鈴鹿峠を越える)が開通するまでは、「倉歴(くらふ)道」(油日から拓植へ出る)が東海道の駅路であり、この駅路変更にともない甲賀駅が移動したと仮定し、郡衙も移動したと考えるべきかどうか、比定条件はこのように複雑になる。『延喜式』によると、甲賀駅には駅馬二〇疋、甲賀郡衙には伝馬五疋が配置されている。駅馬の管理、駅舎の運営などを考慮すると、駅家は郡衙に近く所在したと思われるが、ここでは郡衙の位置を駅家と切り離して推測しておきたい。
そもそも郡衙は都の行政の中心地であり、律令制度が施行される以前の時代から郡内で最も発展を遂げていた地域に置かれた。甲賀郡内でそのような地点は、地理的にみて野洲川と杣川の合流する地帯と考えられる。すなわち旧貴生川(きぶかわ)村・柏木村・北杣村、現在の水口町西南部の辺(あた)りであろう。ここは両川の形成する沖積低地にして、早くより開けていた。もとより考古学的に郡衙跡の発掘が行われなければ断定できないが、一応この地域に想定しておく。
ところで、甲賀郡の郡司になったのは、どのような氏族であろうか。前に引いた天平勝宝三年(七五一)阿倍朝臣島麻呂が弘福寺大修多羅衆へ甲賀郡蔵部郷の墾田野地を売った時の売買券に、甲賀郡の「擬大領外(ぎたいりょうげ)正七位上甲可臣乙麿(こうかおみおつまろ)」「少領(しょうりょう)無位甲可臣男(おのこ)」および「主帳(しゅちょう)無位川直百島(かわあたいももしま)」が署名している。擬大領・少領の甲可臣は、甲賀郡きっての名族であった。天平二十年(七四八)二月、甲可臣真束は、東大寺の大仏に銭千貫の「知識(ちしき)物」(仏事に協力し寄進する物)を献じて外従六位下より外従五位下に叙せられている(『続日本紀』『東大寺要録』)。また、天平宝字六年(七六二)ころ、造東大寺司の番上(ばんじょう)(非常勤)木工で少初位下(しょうそいげ)の甲賀深万呂(ふかまろ)なるものが造石山院所で働いていた(『大日本古文書』)。少し時代は下るが、天暦(てんりゃく)十年(九五六)に「散位(さんい)従七位上甲可公是茂(こうかきみこれしげ)」が追捕使(ついぶし)(凶賊を逮捕する臨時の官)に任ぜられている(『朝野群載(ちょうやぐんさい)』)。
甲賀(甲可)という地名は、河内国讃良(さらら)郡に「甲可郷」、志摩(しま)国英虞(あこ)郡に「甲賀郷」があるから、甲可という地名を負うている氏族は、近江の甲賀郡に居住した氏族であるとは断定できないが、右にあげた甲可臣や甲可公は、明らかに甲賀郡の氏族である。しかし、古代の氏族分布は必ずしも一郷一郡に局限されているのではなく、かなり広範に散在することもある。たとえば、甲賀郡の主帳をつとめる川直百島と同姓の川直鎧(よろい)なるものが高島郡高島里に住んでいた(『大日本古文書』二五巻七五頁)。甲可臣や甲可公のような譜代の名族は、郡衙の所在する郷にのみ居住したと見るよりも、全郡域にわたって繁延し、さらには郡外へも進出していたと考えたほうがよい。
このほか、仁徳(にんとく)朝に阿智(あち)王(阿知使主(あちのおみ))のあとを追って渡来した漢人(あやひと)の中に「甲賀村主(すぐり)」、阿智王の後裔に「夏見忌寸(いみき)」という氏族がいた(『坂上系図』)。甲賀村主や夏見忌寸らは、その姓に負う地名から推して、甲賀郡内に住み着いたと思われる。阿智王を祖先とする東(やまと)(倭)漢(あや)氏は、五~六世紀に渡来した技術者たちを「新(いまきの)漢人」として配下に入れたが、そうした新漢人の一端をになう甲賀村主や夏見忌寸らは、甲賀地方の開発を進め、大陸文化をこの地方に伝えたのである。
図26 古代の宮都と行政区画 近江国には、12郡(大宝令以前は評)・87郷(大宝律令当時は里と称した)が置かれ、国には国司、郡には郡司、郷には郷長がそれぞれ統治にあたっていた。
写15 墨書土器(信楽町宮町遺跡出土) 紫香楽宮の所在地については、いまだ確定するに至っていないが、近年数多くの木簡が出土して注目されているのが宮町遺跡である。昭和62年(1987)に行われた第4次調査では、須恵器の坏蓋を硯に転用したものや、写真のような塗り薬の名称と思われる「万病膏」と書かれた墨書土器なども出土した。