仲麻呂の乱

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孝謙(こうけん)天皇のもとで権力をにぎった藤原仲麻呂(なかまろ)は、天平宝字元年(七五七)七月、橘奈良麻呂(たちばなならまろ)ら反対勢力を一掃し、その翌年八月、孝謙天皇が譲位して淳仁(じゅんにん)天皇が即位すると、専権体制を確立した。同三年(七五九)十一月から近江の保良(ほら)宮(大津市国分の付近)の造営にとりかかり、同五年十月に「遷都」の準備をととのえ、孝謙太上(たじょう)天皇と淳仁天皇は保良宮に行幸した。近江国などの田租を免じ、曲赦(きょくしゃ)(近江一国に限定した大赦)を行い、そして保良宮を「北京(ほっきょう)」と称し、近都の両郡(志賀・栗太)は「畿県(きけん)」として庸を停(や)め、調を半減した。
 保良宮(北京)の造営は平城宮改作のためにしばらく移ることが名目であったが、仲麻呂の意図は、元来藤原氏と関係の深い近江に宮都を営み、自己の権力を揺るぎないものにすることにあった。東山・北陸二道の要衝である近江国をおさえることは、経済的・軍事的に優位に立つことを意味する。ところが、天平宝字六年(七六二)五月、孝謙太上天皇と淳仁天皇はともに保良宮を去って平城京にもどり、道鏡(どうきょう)を寵愛した太上天皇とそれを非難する天皇の間は決裂した。そこで天皇側に立つ仲麻呂は、権力を集中して太上天皇側に対抗しようとはかったが、やがて孤立化をまねき、同八年九月、ついに反乱を起こした。
 緒戦に失敗した仲麻呂は近江に逃げたが、先回りをした官軍に勢多(せた)の橋を焼き落とされ、進路を湖西にとって北上し、越前(えちぜん)に入ろうとした。官軍は湖東を走り越前国府(こくふ)をおさえ、愛発関(あらちのせき)を固めた。仲麻呂軍は進路を失い、湖上に出て塩津(しおづ)に向かうが、逆風にあい、再び陸路をとって愛発関の突破をはかった。しかし撃退され、やむをえず湖西を南下したところ、高島郡の三尾崎(みおのさき)で北上してきた後続の官軍と戦って敗退し、仲麻呂は斬首されたのである。

 


写16 唐橋遺跡 昭和63年(1988)の大津市瀬田川の発掘調査によって、六角形に組まれた橋脚台などが発見された。橋脚台に用いられたヒノキ材の年輪測定から『日本書紀』の壬申の乱(672年)に登場する「勢多(瀬田)橋」であることが確定した。

 延暦三年(七八四)長岡京へ、ついで延暦十三年(七九四)平安京への遷都によって、近江国および甲賀郡はいよいよ重要性を増した。東海道が近江を通るルートに改まり、東山道と東海道は、逢坂を越え瀬田川を渡り、近江国府を経て、栗太郡の梨原郷(なしはらごう)(現在の草津市)あたりで分岐した。東山道は湖東を北上し、東海道は甲賀郡から伊賀国へと向かったのである。まさに平安時代の近江は都の東方の〈関門〉の位置を占めた。