地籍図にみる条里型地割

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石部町域では、野洲川流域の沖積平野部に連続的な条里型地割がみられる。条里型地割とは、古代の条里制に基づいて計画された水田の区画のことである。一町(約一〇九メートル)方格の坪区画を基本単位とする。またその内部は、三〇×一二歩で一段をなす半折型と、六〇×六歩で一段をなす長地型とに分類される。坪が三六個(六×六町)で「里」を形成し、一坪から三六坪までの通し番号がつけられる。その配列(坪並)も並行(へいこう)式と千鳥(ちどり)式とがある。さらに、この「里」の位置を示すために、条と里を郡単位に設定し、基点から数字を冠して進み、座標軸のように組み合わせて、土地の所在を示したのである。これらの区画は現在もなお地表に認められる。それが条里型地割と称されるものである。

図28 条里模式図

 図29は、空中写真と二五〇〇分の一の地図を基本図として、明治初年に作成された地籍図から、当時存在した地割をつけ加えたものである。これによって、近代に改変された条里型地割も再現したことになる。また同図には、土地の高低との関係も示した。この図をもとに現在の条里型地割の計測を行った。

図29 石部町の条里地割

 石部町の条里型地割を検討すると、現在の地表面に残る方格地割(坪)の平均的長さは、南北方向一一一メートル、東西方向一〇九メートルで若干南北方向が長くなっている。この長さは、畦畔(けいはん)・水路を含み、その中心を基点として計測したものである。その場合、南北方向は畦畔、東西方向は水路によって区切られており、一般に水路の幅が広いので、こちらの方が若干長い。これは、地形をたくみに利用した灌漑(かんがい)との関係によるものである。南北方向に水路を通すと野洲川に直接流れ、灌漑面積が限られるのに対し、東西方向は土地の傾斜に合わせてスムーズな灌漑ができるので、その方向に水路を配置したものと考えられる。また、現在残る条里型地割の分布は、中位段丘の末端付近から始まっており、それより北方の灌漑が比較的容易な地域に広がっている。
 つぎに、方格地割内部の地割形態を検討すると、甲西町域では典型的な半折型のものがみられるが、石部町域では類似したものはあっても、典型的なそれはみあたらない。すなわち坪区画は、一町方格に区切られているが、その内部地割は不規則なものが多い。また、野洲川に近づくほど、その一町方格も乱れを生じている。これは野洲川と、天井川である落合(おちあい)川・宮(みや)川の氾濫に原因があると考えられる。野洲川は甲賀郡と栗太郡の境界付近では、幅二〇〇メートルほどの狭隘部を通るため、その上流部でバック・ウォーターによる洪水を頻繁に起こした。また、天井川である落合川・宮川は、上流部の禿山から大量に流出する土砂の影響によって洪水を起こしたのである。これらの地域では、条里型地割はみられない。
 「土地条件図」によると、野洲川の沖積平野はⅠ・Ⅱの二面に分類されているが、これは土地開発の進展や灌漑水利と対応しているように考えられる。すなわち、Ⅰ面は条里型地割が分布しており、落合川の直接灌漑と池掛(いけがか)り地域である。これに対し、Ⅱ面には、空中写真から多数の旧流路がみられ、近世の新田開発地域にあたる。また灌漑は、主に中世以降築かれた水路にその養水を求めている。
 条里型地割は、一般的には正方位のものが多いが、地形に対応して傾く場合もみられる。石部町の条里型地割の方向は、東に約三四度傾いている。これは、甲賀郡域に広がる条里型地割の傾きとほぼ一致しており、さらに野洲・栗太両郡とも共通する。このことから三郡の条里型地割は、ほぼ同時代に施行された可能性が高いと考えられる。
 しかし、条里型地割の坪界線は、甲賀郡と栗太郡とでは、その線を延長してみると、両郡間で四五メートルほどのずれを生じている。また、栗太郡と野洲郡の郡界線において、両郡の里界線に一町のずれがみられる。これらのことから、条里区画の設定は郡単位に施行されたと推定できる。