現在の地名には、条里呼称に関連するものはなく、条里呼称方法は不明な点が多い。『滋賀県史』には、「條は郡の北西境に起こって東南に進み、里は石部町の南方から東北に進んだ如く見える」とある。これまでの甲賀郡内の町史や、前述の諸研究もすべてこれを踏襲している。特に小林・高橋・野間氏らは、この説の妥当性を史料の現地比定などによって認めている。
石部町域に関する条里史料としては、貞和(じょうわ)五年(一三四九)の西寺に関するものがあるにすぎない。これには、常楽寺に「合参反者二百歩三条二里廿七坪」が寄進されたことを記している(『竹内淳一家文書』)。
この「三条二里」を、小林・高橋・野間氏らの論文の計測方法にしたがって比定すると、西寺の山地に位置することになる。もし、小林・高橋・野間氏らの設定した南北方向の条の基準を東に一町ずらすならば、西寺の現在耕地が広がる平地部分にあたる。この付近及び東寺には、断片的ではあるが、やや規則的な地割がみられる。もちろん、このことをもって西寺・東寺付近に条里地割が施行されたとは断定できない。しかし、この付近には常楽寺・長寿寺の古代にさかのぼる名刹が存在しており、開発は古い。小林・高橋・野間氏らの論文もふれているように、たとえ条里型地割がみられなくとも、呼称法だけが用いられたとも考えられる。
甲賀郡域の条里呼称法は、史料が少なく正確なことはいえない。しかし、『滋賀県史』や小林・高橋・野間氏らの論文と同じく、条が北西から南東へ、里が南西から北東へと進む呼称法は妥当のように思われる。
もし、条・里の呼称法が右のようであれば、それは足利氏が明らかにした琵琶湖周辺のそれとは異なる。すなわち、同氏によると図30のように、湖東では条は西北から東南へ、湖西では南から北へと、琵琶湖を中心に時計まわりを原則としている。このように甲賀郡の場合は近江の一般的な呼称法と異なるが、その解釈は今後の課題である。
図30 古代近江盆地の条里 半径およそ3キロメートルの多数の小円は、郷のおおよその位置を示す。黒円点は駅家。
(足利健亮著『日本古代地理研究』大明堂刊より転載)