図31 古代の東海道のルート
足利氏は、条里型地割を重視し、栗太郡では図のA点で東山道と分かれ、条里型地割と一致するA~B~Cのルートを示した。また、そのルートが小字「小大道」の畦畔に乗ることもあげた。甲賀郡では、そのルートの延長線上の五軒茶屋のE~Fの直線的道路に注目し、さらには、近世の東海道H~Iに連なることから計画的道路を推定した。また、D~E~F~Gが、野洲川の攻撃面をさけてバイパスとして通過する可能性を指摘した。このうち、栗太郡のコースについては、あとでふれるように、つぎの服部氏の説に関連して再論されている。
服部氏は、栗太郡では、現在主にみられる東に三三度傾く条里地割と異なる手原の正方位の条里に注目し、①~②~③のルートを推定した。さらに、栗太・甲賀の郡界付近にあたる狭隘部を通過し、甲賀郡では、条里が東海道のルートを基準として設定された可能性を指摘した。
これに対し、小林・高橋・野間氏らは、狭隘部について足利氏の五軒茶屋のD~E~F~Gのルートの可能性を残しながらも、主であったのは、野洲川づたいに通過し、条里地割と一致するD~G~④~⑤のルートを推定している。
以上のように古代の東海道のルートは、条里との関係をめぐり諸説がある。これらのうち、栗太郡では、足利氏のはじめの説と、服部氏の推定ルートとは異っている。前述のように、これについて再検討した足利氏は、古代の官道が最短距離を直線的に進むのがひとつの特徴であることから、それにしたがう服部氏のルートをほぼ認め、さらに、それは長岡京時代の東海道であるとともに、大津京時代のルートである可能性も指摘している。
写17 町道村崎線 古代の官道は、目的地に向かい最短距離を通るため直線の道となる。石部を通過した古代の東海道は、現在の町道村崎線にあたると推定される。