甲賀郡については、服部氏は東海道が甲賀郡の条里の基準となっていると指摘するにとどまっていたが、小林・高橋・野間氏らはそのコースを具体的に推定した。これらの論にしたがって東海道のルートを図31でおってみよう。
栗太郡から甲賀郡へのルートは、①~②~③~④~⑤のルートとなる。これは石部町から甲西町にかけての中位段丘の末端付近を、野洲川の攻撃面をさけて、最短距離を直線的に進むルートである。また、このルートに接して、甲西町大字柑子袋(こうじぶくろ)に足利氏が指摘した古代における郷の正倉と関連した字「蔵町(くらまち)」が存在する。この「蔵町」は、甲西町と石部町の現行政境界に接している。さらにこの地点は、栗太と甲賀の郡界にあたる狭隘部と、現在の甲西町と水口町の狭隘部の間に広がる石部平野のほぼ中央部に位置する。このことからこの字「蔵町」付近が、古代の郷の中心地であった可能性が高い。
このように、甲賀郡を通過した東海道と条里地割は密接な関係にあり、多くの部分で条里型地割に一致しているように考えられる。また、石部町域の条里型地割は、甲西町とともに甲賀郡域では、広域的に残っており、開発が早くから行われていたことを示している。
近年、圃場整備や宅地開発にともない、滋賀県下の条里型地割は消滅しつつあるが、石部町域には方一町区画がなお残存し、古代景観の一部をみることができる。