律令制の祭祀

80 ~ 81ページ
律令制における国家祭祀は、春夏秋冬の四時に行う「四時祭」と、そのほか臨時に行う「臨時祭」に大別される。四時祭のうち最も多くを占めるのは、二月の祈年(としごい)祭と六月・十二月の月次(つきなみ)祭と十一月の新嘗(にいなめ)祭であった。祈年祭は神祇官が祭る神社(官幣社)と国司(こくし)の祭る神社(国幣社)とに分かれる。官幣社とは、神祇官から幣帛(へいはく)をわかつ大社三〇四座・小社四三三座をいい、大社は月次祭と新嘗祭にも班幣される。国幣社とは、国司から幣帛をわかつ大社一八八座・小社二、二〇七座をいう(大社小社の処遇差は不詳)。
 祈年祭の官幣・国幣にあずかる諸社(官社)の名を書き上げたものが『延喜式』の「神名(しんめい)帳」で、これに登載された神社を「式内社(しきないしゃ)」とも呼ぶ。近江国の式内社は、大社一三座・小社一四二座である。このうち甲賀郡は、矢川神社・水口神社・石部鹿塩上(いそべかしほのかみ)神社・川田神社二座(大社)・飯道神社・川枯神社二座の大社二座・小社六座の合わせて八座をあげている。
 現在、式内社の矢川神社は甲南町森尻にある矢川神社、水口神社は水口町宮ノ前にある水口神社、飯道神社は信楽町宮町の飯道神社にあたると考えられる。川田神社は土山町頓宮の川田神社、甲西町正福寺の川田神社、水口町北内貴の川田神社の三説が存し、川枯神社は所在不明である。石部鹿塩上神社は、「柏木村」の「八幡社」、現在の水口町北脇の柏木神社であるという説(『神名帳考証』)と、「石部駅」の「吉比女明神(よしひめみょうじん)」、現在の石部町の吉姫神社であるという説(『神社覈録(かくろく)』『特選神名帳』)の二説が存するが、あとで詳論するように後者が正しいと思われる。
 臨時祭では名神(みょうじん)祭が多く行われた。名神祭とは、国家の災異・事変などに際して、諸国の神社を選んで奉幣する臨時の祭祀であり、名神社はこの名神祭にあずかる神社をいうが、地方において崇敬顕著な神社であったとみられる。式内社の大社のうち、「名神」と注記する三〇六座(臨時祭式では二八五座)が名神社であり、近江国では一二座、甲賀郡では川田神社二座が列せられている。
 律令制の最大の祭祀は大嘗(おおにえ)祭である。天皇が即位後初めて新穀をもって皇祖および天神地祇をまつり饗する儀式をいい、一世一度の「大祀」であって、毎年行う新嘗祭とは区別する。天皇に神聖性を付与する秘儀でもあるので、実質的な即位式だといわれている。この大嘗祭に用いる神饌(しんせん)は、あらかじめ卜定(ぼくじょう)した悠紀(ゆき)・主基(すき)の国郡に産する新穀をあてた。悠紀・主基に卜定される国郡は、一〇世紀から一一世紀ごろに、悠紀は近江、主基は丹波(たんば)・備中(びっちゅう)が交互にと、まったく固定するに至った。
 近江が悠紀国に卜定された最初は天長(てんちょう)十年(八三三)仁明(にんみょう)天皇の大嘗祭のときで、仁和(にんな)三年(八七七)宇多天皇の大嘗祭からは悠紀国はつねに近江となった。なかでも甲賀郡は、後一条天皇の長和(ちょうわ)五年(一〇一六)、後冷泉(ごれいぜい)天皇の永承(えいしょう)元年(一〇四六)、堀河(ほりかわ)天皇の寛治(かんじ)三年(一〇八七)、鳥羽(とば)天皇の天仁(てんにん)元年(一一〇八)の大嘗祭で悠紀に卜定されている。