石部鹿塩上神社

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現在、石部町にある吉姫神社と吉御子(よしみこ)神社は、ともに式内社の石部鹿塩上神社の後身で、同社が後世に分かれたものだと伝える。『東海道名所図会(ずえ)』に「石部鹿塩上神社。駅中田間に鎮座す。延喜式内なり。今両社として下の社を吉彦明神、上の社を吉姫明神、土人虚空蔵(こくうぞう)と称す。祭神倭姫世紀(やまとひめせいき)に見えたり」とあり、『神祇志料』もまた「石部鹿塩上神社。今石部駅に在(あ)り。上下両社とす。上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ。即駅中の生土神(うぶすなしん)也」という。
 式内社がのちに吉姫・吉御子(彦)両社となったとみるのに対して、どちらか一方に比定する考えもある。『神社覈録』には「石部鹿塩上神社。石部鹿塩は伊志倍加志保と古点あり。上は加美と訓(よむ)べし。祭神吉比女、檜物荘石部駅に在す。今は吉比女明神と称す」とあって、石部鹿塩上神社は吉姫神社だけをさすとする。また、吉御子神社も、もとは谷村の「黒之御前(くろのごぜん)」にあったが、弘仁(こうにん)三年(八一二)いまの「宮山(みややま)」に移転し、これが式内社の石部鹿塩上神社であるという社伝をもつ(『甲賀郡志』)。
 それでは、式内社の石部鹿塩上神社は現在の吉姫神社と吉御子神社のいずれにあたるのであろうか。『近江輿地志略(よちしりゃく)』が、石部にある神社として、「吉御子大明神(だいみょうじん)社」と「上田大明神社」(吉姫神社の別称)をあげながら、後者にのみ「神名帳に載(のせ)る所の、甲賀郡八座の中の、石部鹿塩上の神社と云是なるべし」と注記するのは、式内社の後身が吉姫神社とする説を支持していることを示している。『吉姫神社誌』が、『神社覈録』や『特選神名帳』の所説を引用しながら、石部鹿塩上神社の「上」とは、もとは上下両社あって、野洲川の川上の石部鹿塩上神社は吉比女をまつり、川下の石部鹿塩下神社が吉比古をまつり、上社だけが祈年祭の奉幣にあずかって、下社は祈年祭の奉幣にあずからなかったので神名帳に記されなかった、と推論するのが妥当な見解であろう。
 石部鹿塩下神社が祈年祭奉幣の例に加えられなかった理由を想定することは困難だが、石部鹿塩上神社=吉姫神社、石部鹿塩下神社=吉御子神社となれば、両社の創祀はすくなくとも律令時代にさかのぼることができよう。上下社の祭神である吉比女・吉比古のことは、『東海道名所図会』が指摘するとおり、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』に見える。しかし、それは倭姫命が皇大神(天照大神)を伊勢へ遷座する途中、阿佐加藤方片樋宮(あさかふじかたかたひのみや)に斎(いつ)き奉る時、阿佐加々多(あさかがた)(阿佐加潟)に「多気連(たけのむらじ)の祖、宇加乃日子(うかのひこ)の子、吉志比女(よしひめ)、次に吉比古(よしひこ)二人参り相いき」とあり、吉比女・吉比古が倭姫命に会ったのは、伊勢国壱志(いちし)郡の阿佐加(あさか)(今の松阪市大阿坂・小阿坂付近)であった。吉比女・吉比古が倭姫命のもとに参向したのは、「淡海(おうみ)甲可日雲(ひくも)宮」(甲西町三雲か)に遷座した時の話ではなく、また多気連は伊勢国多気(たけ)郡の豪族であるから、石部鹿塩の上下社と倭姫命伝承を結びつけることは難しい。強いて関係づけるとなれば、多気連の祖神・宇加乃日子につらなる吉比女・吉比古を奉祀する氏族が石部に居住していたとだけ考えられるのである。

写18 吉姫神社・吉御子神社 両社ともに式内社石部鹿塩上神社の後身とする説と、吉姫神社が同社の後身とする2説がある(『伊勢参宮名所図会』)。