ところで、政府はこのような状況に手をこまねいているわけではなかった。延喜二年荘園整理令が発布され、荘家新立および王臣勢家による山川藪沢の囲い込みを禁止した。そして班田収授の実行と調(ちょう)・庸(よう)の納入期日厳守を命じたが、効果を認めることができなかった。
そこで政府は、国司に対し基準国図(一国の公田の基本台帳)をもとに、一定の貢納物を朝廷に上納することを義務づけ、そのかわり大幅に国司の支配権を拡大した。公田は、田堵(たと)とよばれる農民に請作させ、その田地の単位を「名(みょう)」として把握するようになる。
ところで、国内支配権を大幅に認められた国司は、段別賦課率法の変動権や検田(けんでん)権を掌握し、自己の武力を背景に非法を行うことことが社会問題となっていく。永延(えいえん)二年(九八八)の「尾張国郡司(ぐんじ)百姓等解文(げぶみ)」は有名であるが、近江国でも長元(ちょうげん)九年(一〇三六)に、百姓ら五・六〇〇人が大内裏(だいだいり)の陽明門(ようめいもん)に参集して、国司藤原実経(さねつね)の非法を愁訴している(「長元九年記」)。
このように国司制度の変容は、郡にも及び、郡衙(ぐんが)の権限が国衙に吸収されていった。また、郡自体も分割されていく場合があった。甲賀郡の場合、康平(こうへい)元年(一〇五八)十一月付の「秦安成解(はたのやすなりげ)」(『平安遺文』九二〇号)によって東西に分割されていたことがわかる。これは甲賀郡を甲賀谷と信楽谷に分割したものと思われる。この東西の郡には、それぞれ郡司が置かれた。時代は下るが、保安(ほうあん)四年(一一二三)、儀俄(ぎが)荘と国衙領との堺相論で、国司庁宣が甲賀東郡司宛に出されており、東郡司がこの相論の調査に加わっていたことが知られる(『平安遺文』一九九一号)。