図32 摂関家系図
摂関家領檜物荘(ひもののしょう)が歴史上にあらわれるのは、藤原頼通の代、康平(こうへい)五年(一〇六二)正月十三日の春日詣に檜物荘が屯食(とんじき)三具を宛てられているのが初見である(『康平記』康平五年正月十三日条)。春日詣とは、藤原氏が氏人として氏神である奈良春日社に詣ずることであって、摂関家・氏長者(うじのちょうじゃ)が一度は必ず行うものであった。檜物荘の範囲は不明だが甲賀郡から蒲生郡にかけての広大な地域であったらしい。石部町もこのなかに含まれる。
平安時代の檜物荘の貢納物をみると、ほとんど木製品である。例えば、頼通の曾孫、忠実(ただざね)の家政機構を示す「執政所抄」によれば、外居・長櫃・杓樋などを貢納している。このほか、丈六仏像造営に檜物荘が半丈六仏一躰を宛てられている(『兵範記(へいはんき)』久安(きゅうあん)六年八月巻裏文書『平安遺文』二六一八号)。また、貢納の内容はわからないが、仁平(にんぴょう)元年(一一五一)三月八日付「檜物荘非時送文(ひじおくりぶみ)」(『平安遺文』二七二三号)が残されている。