檜物荘は、藤原頼通の代からその存在が知られるが、その後頼通は家領を平等院(京都府宇治市)、妻隆子(高倉殿)、息師実(もろざね)、娘寛子(四条宮)に処分した。檜物荘は、寛子に処分されたらしい。その後、寛子の家領は、忠実(ただざね)を経て娘の泰子(高陽院(かやのいん))に伝領される。これ以後、檜物荘を含めたこれらの家領は、高陽院領と呼ばれることになる。
高陽院泰子は、この時期の摂関家の政治的立場を象徴する人物であった。すでに後三条(ごさんじょう)天皇を経て、白河(しらかわ)上皇の院政が開始されており、摂関家は往年の権力を失なっていた。保安(ほうあん)元年(一一二〇)、泰子の入内(じゅだい)問題がこじれ、忠実は関白を罷免(ひめん)させられる。翌年、忠実はその処分が解かれ、関白は嫡男忠通(ただみち)が継ぎ、忠実は宇治に籠居したままであった。このことは、上皇が摂関家に対し絶対的に優位に立ったことを現わしている。
ところが、大治(だいじ)四年(一一二九)白河上皇が死去し、鳥羽(とば)上皇が院政を開始すると、状況が変わった。前(さきの)関白忠実は、内覧に復活し、長承二年(一一三三)泰子は鳥羽上皇のもとに入内した。高陽院領は、泰子の後宮生活の費用をまかなうために処分されたものである。
しかし、忠実の復活は、摂関家に新たな危機を作り出した。忠実の息、関白忠通との対立である。忠実は、もう一人の息頼長(よりなが)と結び、両者は抜差し難い関係となっていく。ここに保元の乱(ほうげんのらん)以降の内乱へと向かう道が作られていったのである。
地方では、武士の力が台頭してきており、甲賀郡でも、永久(えいきゅう)二年(一一一四)源義光(よしみつ)が山村(本カ)・柏木両郷を「御勢を募らんがため」に摂関家に寄進しており、清和源氏と甲賀郡とのかかわりが知られる(『平安遺文』補四〇・四一号)。また、宇多天皇から出た近江源氏も各地で実力をたくわえつつあった。
また、摂関家は、家領の人々を舎人(とねり)として宿直警備や雑役をさせるため上京させた。平治(へいじ)元年(一一五九)閏(うるう)五月から六月にかけての「高陽院方舎人当番支配」(『兵範記』仁安(にんあん)二年十月・十一月裏文書、『平安遺文』二九八四号)によれば、高陽院領の近江・摂津・和泉の三国から二六八人が上番し、近江国はそのなかでも二〇六人が上番している。鎌倉時代、建長(けんちょう)五年十月二十一日付の「近衛家所領目録」(『鎌倉遺文』七六三一号)によれば、近江国の高陽院領は檜物荘のほか、甲賀郡信楽荘、神崎郡柿御園、栗太郡田上輪工の四つからなっており、檜物荘からも多くの人々が上番していたと思われる。彼らは、摂関家の政所、納殿、紅工所に配置された。「高陽院方舎人当番支配」の作られた平治元年といえば、十二月に平治の乱が起こっており、彼らも戦乱に巻き込まれたであろう。
ところで高陽院領は、保元の乱で後白河天皇側についた忠通が伝領し、その後摂関家は、忠通の長男基実(もとざね)(近衛家)と三男兼実(かねざね)(九条家)の二家に分れると基実が伝領し、以後代々近衛家の家領として相続される。