近江の新道

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長らく東海道の通路の一部を形成していた「倉歴道(くらふのみち)」は、仁和(にんな)二年(八八六)に至りその役割を終えた。石部平野の「岡田駅家(うまや)」(推定・甲西町三雲付近)から水口を経て、鈴鹿峠を越え、「関駅家」に至る「阿須波(あすは)新道」が開設されたからである。
 『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』の仁和二年五月十五日の条によると、左衛門権左(さえもんごんのすけ)従五位上源朝臣昇と六位の官人一人を派遣して阿須波の道の利害を検分させている。ついで六月二十一日の条には、伊勢斎内親王(繁子)が「近江国新道(阿須波新道)」を通り伊勢神宮に行くことが伊勢国に告げられ、また、倉歴の旧道にあった頓宮(とんぐう)(柘植(つげ)付近)を停止することが伊賀国に伝えたことを記している。これにともなって、「甲賀駅家」も「阿須波新道」へ移動したと考えられる。