新道の整備

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この新道は、ほぼ近世の東海道に一致し、また伊勢路と称されたように、東国に向かうよりもむしろ伊勢参宮のルートとして用いられていた。伊勢参宮の中で特に重要であったのは、斎王群行(さいおうぐんこう)と伊勢勅使(ちょくし)の通路になっていたことである。
 斎王群行とは、天皇が即位した時に未婚の皇女の中から斎王が選ばれ、三年間都の初斎院(しょさいいん)・野宮(ののみや)での潔斎のうち、その九月に天皇に別れを告げ、伊勢神宮に行く行事である。
 これに対して伊勢勅使とは、天皇の特使として貴族が伊勢神宮へ御幣を奉納する行事をいう。このような行事はきわめて穢(けがれ)を嫌うことから、「阿須波新道」はかなり整備された道であったものと考えられよう。

図33 伊勢路へのルート

 一〇世紀の初めのころの状態を示したと考えられる『延喜式』二八、兵部省・諸国駅馬条の駅馬数によると、図34のようになる。東山道と東海道を兼ねる瀬田駅家は、三〇疋である。これに対して新道の三駅家である岡田・甲賀・鈴鹿は伊勢路と東海道を兼ねるために、中路であるにもかかわらず、大路なみの二〇疋が備えられており、駅家も整備されていたものと考えられる。伊勢国の伊勢路の三駅は八疋で、伊勢神宮を過ぎ、志摩路に至ると四疋となっており、交通量に対応した駅馬数が決められていたようである。このことからも甲賀郡は、交通の大動脈が通る重要な地域であったことが理解される。

図34 駅馬数配置からみた岡田駅の位置
(足利健亮著『日本古代地理研究』による。)