斎王群行

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斎王群行と伊勢勅使は、きわめて重要な行事であったため、文献に散見する。表3は、現在までに確認できるものを一覧にしたものである。斎王が甲賀郡を初めて通過した記録は、「阿須波新道」の開設と同時に斎王繁子が群行した時のものである。さらに『西宮記(さいぐうき)』によると、醍醐(だいご)天皇が即位した二年後の昌泰(しょうたい)二年(八九九)九月に斎王柔子が群行している。この時の旅程は、八日の夜に京都を出発し、九日「勢田」、十日「甲賀」、十一日「垂水(たるみ)」、十二日「鈴鹿」、十三日には「壱志(いちし)」に至っている。

写21 伊勢斎宮禊祓旧跡碑
栗東町伊勢落の寿泉神社境内にあるもの。『近江輿地志略』には、斎宮跡であるとされている。

表3 平安時代伊勢奉幣使石部通過日一覧
石部通過日文献名作者
昌泰2年9月10日(899)西宮記源高明
寛弘2年12月11日(1005)18日権記藤原行政
長和4年9月23日(1015)小右記藤原実資
長元4年(1031)左経記源経頼
長元7年10月29日(1034)左経記源経頼
長暦2年10月(1038)水野忠央
承保元年6月27日(1074)伊勢公卿勅使抄所引承保元年記
承保元年6月29日(1074)7月4日師記(経信卿記)源経信
寛治4年9月11日(1090)伊勢勅使部類記
長治2年8月15日(1105)22日雅実公記(久我相国記)源雅実
嘉承2年2月12日(1107)19日雅実公記(久我相国記)源雅実
永久2年正月28日(1114)中右記藤原宗忠
治承元年9月12日(1177)愚眛記三条実房
治承元年9月12日(1177)17日公卿勅使記

 『延喜式』によれば、斎王群行は九月に行うのが恒例となっている。頓宮(とんぐう)は、近江国府(瀬田)・甲賀・垂水・伊勢国鈴鹿・壱志の五ケ所であり、禊(みそぎ)を六ケ所の界川、すなわち近江勢多川・甲賀川(野洲川)・伊勢鈴鹿川・下樋(したび)(雲出川)・小川(櫛田川)・多気川(宮川)で行うこととなっている。
 この野洲川で行う禊は、野洲・栗太・甲賀三郡の境界に位置する伊勢落(いせおち)村付近であったと考えられる。伊勢落村は『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によると、かつて「伊勢大路(いせおおじ)村」と称していたとする。現在も野洲川の堤防に沿った田の中に斎宮跡の伝承地がある。文献的にも、『帥記(そつき)』の承保(じょうほう)元年(一〇七四)、『中右記(ちゅうゆうき)』の永久二年(一一一四)、『愚昧記(ぐまいき)』の治承(じしょう)元年(一一七七)などに野洲川の禊に関係する記事がみられる。
 伊勢落村は、伊勢路のなごりの場所であり、三郡の境界に接し、禊の地としてふさわしい地点であったものと思われる。