伊勢勅使

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つぎに、伊勢勅使では権大納言藤原行成(ごんだいなごんふじわらのゆきなり)の日記『権記(ごんき)』に出る伊勢勅使関連のものが最も古い。現存する『権記』の伝本は正暦(しょうりゃく)二年(九九一)から寛弘(かんこう)八年(一〇一一)の二〇年間に及んでいる。行成は藤原道長のごく近い縁続きであり、彼の良き相談相手となっていたようである。
 『権記』によると、寛弘二年(一〇〇五)十二月九日に臨時の伊勢勅使が決定され、翌十日に京都を出発し、「勢多驛(瀬田)」に着いた。十一日、一行は石部を通過して「甲可驛(甲賀)」に至った。十二日は「鈴鹿関戸驛」、十三日に「壱志驛」に、十四日に伊勢神宮に到着した。十五日伊勢に滞在し、奉幣を行った。一行の帰路は、十六日阿濃に泊り、十七日甲賀、十八日瀬田、十九日京都に戻っている。
 伊勢勅使の場合、斎王群行とは違って頓宮には泊らず、「假屋(かりや)」・「借屋」と呼ばれる施設に宿泊している。これは、前述した『延喜式』記載の駅家とは別の場所に設けられたと考えられる。日記にみられる駅は、『延喜式』記載の駅家ばかりをさしているのではなく、この「假屋」・「借屋」をも含んだものと思われる。
 承保元年(一〇七四)六月二十八日に伊勢勅使として京都を出発した源経信(つねのぶ)は、『帥記』に詳細に旅程を記している。
 六月二十八日「勢多駅家」に着いた一行は、二十九日、午刻に「夜須川(野洲川)」の渡し口に至る。そこでは、降りしきる雨の中、危険な箇所を過ぎるようすと、洪水の状態が描写され、渡し口には舟がなく苦労して川を渡っていることが記されている。この場所こそ野洲川の狭隘部の野洲・栗太・甲賀の郡界線付近であったものと考えられよう。その日は、「栗太駅」に宿泊した。甲賀郡に入って「栗太駅」という名称には疑問が残るが、この宿所が郡司重綱大岡宅であるとし、近江国が「借屋」を造らず懈怠していると述べている。このことから、『延喜式』の駅家以外にも、伊勢勅使の宿泊施設があったものと考えられる。三十日には鈴鹿、一日は壱志、二日には伊勢神宮に到着した。帰路も同様のルートで四日に伊勢神宮を出発して、「壱志」・「鈴香」(鹿)、「郡司大岡宅」、「勢田」、八日に京都といった旅程であった。

写22 岡遺跡(栗東町) 近年の発掘調査により、栗太郡衙の可能性が高いと注目されている。伊勢勅使源経信は郡司の邸宅に宿泊したことが記録に残っており、郡衙の所在地とも密接な関係をもつ。