伊勢勅使の記載の中で石部に関係して最も注目される文献は、『雅実公記(まさざねこうき)』の記述である。この日記は、保安(ほうあん)三年(一一二二)に源氏で初めて太政大臣となった源雅実の手になるものである。これは、雅実が家号を久我といったので『久我相国記』とも呼ばれている。
雅実は、長治(ちょうじ)二年(一一〇五)八月十三日伊勢勅使として京都を出発し「勢田」に到着、十五日「甲可」、十六日「鈴鹿」、十七日「壱志」、十八日には「伊勢」に至っている。このルートは、ほとんど『権記』に記されているそれと変わらない旅程である。二十日には帰路に着き、「壱志驛」に泊り、二十一日「関驛家」、翌二十二日鈴鹿峠を越えた一行は、「甲可」に泊らず「石部驛家」で近江国司の出迎えを受け、そこで宿泊しているのである。この記事が石部の宿的機能を示す初めての史料である。翌二十三日には、一行は京都へ到着した。
嘉承(かじょう)二年(一一〇七)二月十一日、再び伊勢勅使として京都を出発した雅実は、「勢多驛」に入り、翌十二日に「石部驛家」に至る。十三日には石部を出発し、一気に鈴鹿峠を越え「関驛家」に到着している。十三日の行程はかなり強行軍であったらしく、「山嶮道遠、人疲馬泥」と記している。
伊勢に着いた一行は、十七日に伊勢を出発して「壱志驛」、十八日「関驛」、十九日「石部驛館」に着いている。
この瀬田から甲賀に泊らず石部に宿泊し、鈴鹿峠を越え、関に至るルートの中にはかなりの難所があった。甲賀駅家を利用して関に至る行程は、朝八時に出発し、夜五時に到着するのが一般的であるのに対し、石部に泊った場合夜七時に関へ到着しており、二時間あまりの時間を費している。