金粛菩薩の霊応の地という伝承から、寺院開創の素地が、菩薩または禅師と称されていた民間の古代山林宗教者によって拓(ひら)かれていたことがうかがわれる。伝承上ではあれ、古代山林宗教者が寺院開創に関与していたことを示唆しているのが、長寿寺の縁起である。成立は新しいが、古伝承を継いでいる「阿星山長寿寺縁起(えんぎ)」や「由緒書之覚(ゆいしょがきのおぼえ)」によって紹介しておこう。
往古、阿星山麓にひとつの巌崛があり、裸形の沙門が修行していた。時に聖武天皇は皇子がなく、諸山諸寺に誕生を祈らしめられたが、その効験がなかった。王城より丑寅(東北)の方にいる沙門に祈らせば御平産なされようとの陰陽師(おんみょうじ)の占いで、天皇は勅使を近江路に派遣された。阿星の嶺からたなびく紫雲を見て、勅使は山中に分け入り、瀑布の傍の巌上に黙然と坐す修行僧と会い、皇子誕生の祈祷を墾願、やがて皇女(孝謙(こうけん)天皇)が誕生された。
ここに天皇は叡感あって、安穏(あんのん)谷に七堂伽藍、二十四宇の坊舎を建立せしめられ、さらに宝算の延長を期して、行基(ぎょうき)菩薩に命じて五尺の地蔵菩薩像を造らしめ、天皇自ら長寿寺と号し給うたと。
縁起に聖武天皇、行基が登場するが、この両人と信楽の地とは甲賀寺の造営、大仏の造立できわめて関係が深い。しかし石部地方とは無関係である。したがって「抑(そもそも)阿星山長寿寺ハ人王四十五代聖武天皇、天平年中御建立ノ地也、則(すなわち)良弁僧正ヲ請シテ開山タラシム」(『阿星山長寿寺縁起」)というのも寺側の伝承であって、事実を伝えたものではない。しかし、著名な二人の登場人物は否定されるが、「裸形之沙門」のみは阿星山中で修行する宗教者として、その存在の可能性を容認することができる。
阿星山は山林修行の場であった。裸形の僧が居た瀑布の傍の巌石には、のち不動像が彫られて瀧不動と称され、ここが長寿寺の奥院とされた(同上)。不動尊の彫像は、平安時代になって天台密教が盛んとなってからの現象であるが、山中の瀑布・巌石を修行の場とし、呪力を修得しようとする宗教者の存在は奈良時代にさかのぼることができる。
長寿寺は、背後の阿星山に展開する、山林修行者とその宗教的境域、いいかえると雑密(ぞうみつ)の山林宗教的世界の進展のなかで、創立されたといえよう。
写26 紫雲の滝 東寺字安穏谷にある。滝不動は長寿寺の奥院として、今なお多くの信仰を集めている。