これは、延慶(えんきょう)元年(一三〇八)の「常楽寺二十八部衆勧進状」、延文(えんぶん)五年(一三六〇)の「常楽寺勧進状」が伝える縁起である。もとより伝承であって、すべてを事実とみなすことはできないが、少なくとも鎌倉時代には、常楽寺の歴史を古くにさかのぼらせ、成立の前史を阿星寺に求めていたことは確かである。
阿星寺から飛来したという、この千手観音菩薩像にはいまひとつの霊瑞譚(れいずいたん)がある。常楽寺はあとで述べるように延文五年三月に炎上する。その復興に当って作られた勧進状にその話が述べられている。諸像のうち、釈迦如来像、十一面観音菩薩像、二十八部衆群像らは尊体を損なうことなく難を避けえたが、千手観音菩薩像は、
回禄(かいろく)(火事で焼けること)の最中、忽然(こつぜん)と紛失、壇上にこれを覓(もと)めえず、帳内にこれを拝見しえず、
と、人びとは悲歎し、聞くものも奇異としていたところ、ある人に
われ火災を遁(のが)れ、いまだ灰燼とならず、はやく堂閣を建立せば、壇上に還帰すべし
との菩薩の霊告があった。
勧進阿闍梨観慶(かんじんあじゃりかんぎょう)は、勧進状に右のことを記し、「貴き哉、憑(たのも)しき哉、励まざるべからず」と、阿星寺から飛来した千手観音菩薩像を安置する仏殿の再建に邁進することを表明している。
観音菩薩の霊告の話は、おそらく勧進事業の完遂を念願しての、観慶のはかりごとであろう。想うに仏堂から持ち出すとき、仏体がひどく損傷したので人目を避けたか、あるいは炎禍にあったのではなかろうか。