遮那・止観の道場

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行胤によって寺院が一新された常楽寺は、これより「比叡山の末寺」「遮那・止観の道場」(「二十八部衆勧進状」)として栄えた。
 「比叡山の末寺」というが、具体的には比叡山東塔(とうとう)北谷の惣持(そうじ)坊の末寺であり、常楽寺、長寿寺とも本寺は同一であった。「遮那・止観の道場」とは、要するに天台宗の道場ということで、天台宗の修行たる遮那業(しゃなごう)(密教儀礼の専修)と止観業(しかんごう)(天台学の学習と常行三昧など四種三昧の実践)を修する天台寺院たることを意味していた。
 長寿寺、常楽寺は阿星山麓にあって隣接し、後背に金勝寺、東北の方に延暦寺根本中堂の末寺たる善水(ぜんすい)寺(甲賀郡甲西町岩根(いわね))を望む位置にあって、檜物下荘(ひものしものしょう)あるいは甲賀下郡・栗太北郡における天台宗発展の一翼を担ったのである。
 常楽寺の仏堂・僧坊は年を追って整ったようで、延文五年三月災火に遭うまでの約二〇〇年間に、三〇余宇を数えるにいたった(「常楽寺勧進状」)。当寺の平安時代における興隆を偲ばす遺品として、先述の釈迦如来坐像のほか、錫杖(しゃくじょう)一柄、金銅火舎(かしゃ)一口、銅仏餉(ぶっしょう)器二口が伝えられている。
 一方、長寿寺は、寺伝によれば、聖武天皇以来累代勅願寺となり、その後、清和(せいわ)天皇のとき、貞観(じょうがん)年中(八五九~八七七)に再興され、行基作の地蔵菩薩は染殿(そめどの)の后(きさき)(文徳(もんとく)天皇の女御(にょうご)、藤原明子(あきらけいこ))の守本尊となったというが、いずれも伝承で確証がない。しかし長寿寺にも平安時代の仏像があり、古代での興隆をうかがわせている。阿弥陀如来坐像二体(うち一体恵心僧都(えしんそうず)作、染殿(そめどの)皇后寄進と伝える)、釈迦如来坐像一体があり、また平安時代末期の伝聖観音菩薩立像が遺っている。
 平安時代の長寿寺境内には、これらの仏像を安置する諸堂が造立されていた。なかには地蔵堂もあった。縁起にいう子安地蔵菩薩を祀る地蔵堂が後世当寺の主堂となったと思われるが、この地蔵菩薩像は秘仏として開帳の時以外拝見が許されない。後世のことであるが、当寺の中興開山聖珊(せいさん)法印が慶安(けいあん)二年(一六四九)に開帳してより(延宝八年「阿星山長寿寺旧記」)、三十三年ごとに開帳されることになった(延宝六年「長寿寺中興開山聖珊法印伝」)が、このときすでに「子安地蔵」という呼称があった。室町時代に地蔵信仰が盛んとなってから、地蔵菩薩像が長寿寺の主尊となったのであろう。いうまでもなく、子安地蔵の名称は平安時代のものではない。子安地蔵を中心とした縁起の成立時期は室町時代と考えられる。戦国時代には、この地蔵菩薩が「勝軍(しょうぐん)地蔵」とみられたこともあった(『蔭涼軒日録(おんりょうけんにちろく』長享年十月廿三日条)。かかる地蔵菩薩を安置した厨子内には、なお一体平安時代の作とみられる観音菩薩像が祀られていて、寺の歴史が秘められているようである。