仏教王国近江に属して、石部の地もまた豊かな仏教文化の遺産に恵まれた地域である。町域こそ狭いが、なんといっても長寿寺・常楽寺の二大寺の存在は大きく、この二ケ寺だけで実に一七件の国指定有形文化財を有している。
長寿寺・常楽寺ともに阿星山(あせいざん)の山号と良弁開基の寺伝をもち、おそらく南都系の仏徒によって開かれた阿星山寺に属する房舎がその前身であったろうが、古い時期の遺品は何も残されていない。その後、長寿寺は清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)年中(八五九~八七七)に再興されたというが、なおも遺品を伝えず、一方、常楽寺は仁平(にんぴょう)年中(一一五一~五四)にいたって僧行胤(ぎょういん)によって中興をみたという。両寺とも遅くともこのころまでには天台宗に属していたようである。
さて、ちょうど常楽寺が再興された時期、すなわち平安末期の一二世紀ともなると、石部の町域にも現存する文化遺産がにわかに見出されるようになる。院政期になって急に文化財、特に仏像の数が増加するというのは、石部町域にかぎらない全国的な現象である。とりもなおさず、造寺・造仏がこの時代にはきわめて活発であったわけだが、それには浄土教の盛行とそれに関連して結縁(けちえん)という信仰形体が存在したことの二点の関与するところが大きいと思われる。このことについて簡単に述べておく。