主として比叡山において発達をとげた浄土教は、最澄(さいちょう)が企図しながらも果たせず、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって初めて修された常行三昧(じょうぎょうざんまい)に始まるといってよい。この常行三昧は『摩訶止観(まかしかん)』に説かれる行法で、九〇日を一期とし、身は常に行(あゆ)み、口は常に阿弥陀仏の名を唱え、心は常に阿弥陀仏を念じて休息することなしとされるものである。ただ円仁の行った三昧法は入唐求法(にっとうぐほう)の旅から将来した法照流五会念仏(ほっしょうりゅうごえねんぶつ)の法であって、『摩訶止観』所説のそれとは異なるものであったが、いずれにせよこの行法は多少その内容を変質させながらも、一〇世紀末ごろには不断念仏(ふだんねんぶつ)の名で叡山に定着していた。ちょうどこのころに現れたのが『往生要集(おうじょうようしゅう)』の著者源信(げんしん)であった。
源信の思想の新しさは、自己を仏教者として劣った存在であると認め、現世を仏法の衰微した時代と考えたうえで、末世にふさわしい教えとして浄土教を鼓吹した点にある。時あたかも天災・人災あいついで人々は深刻な社会不安に陥り、末法の世の到来におびえていたため、彼の教説はたちまち多くの人々の歓迎するところとなった。
源信は極楽浄土への往生のための行として、口称念仏(くしょうねんぶつ)とともに阿弥陀如来の姿を観ずる観想(かんそう)の念仏を説き、これが造寺・造仏を促進させる契機となってゆく。『往生要集』に刺激されて浄土教に帰依した藤原貴族たちは、次々に常行堂(じょうぎょうどう)・阿弥陀堂(あみだどう)を建立し、その堂内に阿弥陀如来を安置して観想のよすがとしたのである。そしてそれは一一世紀から一二世紀へと下るにつれて数的にも地理的にも拡大の一途をたどり、造仏そのものが浄土往生のための功徳(くどく)となるという考え方が定着したことによって拍車がかけられた。
浄土教への傾斜は中央貴族ばかりではなく、やや遅れて地方の豪族層やそれ以下の階層にも認められるようになる。このことは院政期にあいついで成立した往生伝に明らかなところであろう。彼らのなかには単独で造寺・造仏を行える富裕な者もいたが、それ以外にも造像に参与する道はあった。院政期の仏像には胎内銘(たいないめい)をもつものもしばしばみられ、そこには造立の願文や年時、願主の名などとならんで、多数の結縁交名(けちえんきょうみょう)が記されている場合がある。彼ら結縁者はいくらかなりとも浄財を喜捨することによってその造像にあずかり、往生のための功徳を積もうと考えたわけである。
一一世紀の末から一二世紀の制作と考えられる仏像がそれ以前の時代に比べて急激に増加する背景には、以上のような状況が存在したと思われる。功徳主義・数量主義的な信仰の必然的な結果と評せよう。
一方、実際にノミをふるう仏師の側の事情に目を向けると、定朝(じょうちょう)による寄木造(よせぎづくり)の大成ということに注目しなければならない。これによって造像に要する時間は短縮され、また御衣木(みそぎ)の獲得も容易になって、大量の、しかも巨像の注文にも応ずることが、以前に比べてはるかに容易になったであろう。これは往生を求めて人々が造仏に狂奔(きょうほん)する時代にふさわしいタイムリーなできごとであった。思想的要請にこたえうる技術的革新が果たされ、優美な定朝様の諸仏が陸続と誕生する世が到来したのである。