寄木造の大成者である仏師定朝は、仏像彫刻における新様式の確立者でもあった。彼の制作であることの確実な現存作例は、天喜(てんぎ)元年(一〇五三)に供養された宇治平等院鳳凰堂(うじびょうどういんほうおうどう)の本尊阿弥陀如来坐像(あみだにょらいぎぞう)(国宝)一躯のみであるが、貴族達の注文が彼に殺到して多数の造像に従事したことは諸種の文献に明らかである。彼の創始した平明で静的・絵画的な様式が、それだけ藤原貴族の好尚にかなったわけだが、とりわけ観想の対象となる阿弥陀仏の姿としてふさわしい像容ではなかったかと思われる。鳳凰堂像に代表されるこの定朝様(じょうちょうよう)は、運慶(うんけい)・快慶(かいけい)らの登場によって鎌倉新様式が成立するまでの一世紀以上もの間、まさに一世を風靡(ふうび)した感がある。なかには定朝の制作した像の精密な法量を測定し、可能なかぎりこれを模した像を造ろうとする努力さえはらわれたほどであった(『長秋記(ちょうしゅうき)』長承(ちょうしょう)三年(一一三四)六月十日条)。石部町域には平安末期の仏像が数躯現存するが、これらもまた定朝様の影響をうけるものである。