本堂に向かって右奥の場所にある収蔵庫内に安置される阿弥陀如来坐像(重文)は、像高二八五・五センチメートルの丈六像(じょうろくぞう)である。衲衣(のうえ)を偏袒右肩(へんたんうけん)に着け、腹前で弥陀の定印(じょういん)を結ぶ姿で、肉髻(にっけい)が碗を伏せたようなかたちであること、伏目がちの面貌、衣文線(えもんせん)が浅く整えられているなどの点から、一二世紀の制作と判断できる。定朝様の系列に属する像ながら、顔の表情をはじめとして全体に洗練を欠く感は否めず、地方作と評すべき作風である。これだけの巨像でありながら、その造立に関する記録は何ひとつ伝わっていない。浄土往生への願いがこめられた造像であったろうと想像されるばかりであるが、当初より常行堂ないし阿弥陀堂の主尊として造立されたことは推定できよう。寄木造で、内刳(うちくり)をほどこし、漆箔(しっぱく)仕上げとしている。
写28 長寿寺丈六阿弥陀如来坐像
本堂内にも二躯の平安時代の如来像が安置されている。本尊である子安地蔵(こやすじぞう)の両側に配されてはいるが本来一具の作ではなく、当初の安置場所も他に求められるべきものである。
二躯のうち向かって左方の釈迦如来坐(しゃかにょらいざ)像(重文)は像高一八〇・〇センチメートルの周丈六像(しゅうじょうろくぞう)である。右手を胸前にかまえて掌を正面に向け、左手は膝上で仰掌する施無畏(せむい)・与願(よがん)の印を結び、衲衣を偏袒右肩に着けて、左足を外にして坐す。寄木造で内刳、漆箔をほどこす。やはり碗型をした肉髻で、肉取りも抑揚をおさえている。衣文は浅いながらも流麗であり、面相などを見ても、定朝様を踏襲した一二世紀の諸仏のなかでも正統的なものであるという感をもつ。ただし、その面部もすでに丸みを失って平板であるのは時代のしからしむるところであろう。
須弥壇(しゅみだん)上の向かって右方には、像高一四二・五センチメートルの半丈六(はんじょうろく)阿弥陀如来坐像(重文)が安置される。定印を結び、寄木造、内刳、漆箔をほどこす像である。碗型の肉髻、形式化した衣文線など、やはり平安末期の諸像に共通する作風が見出せる。ただ目じりが切れ上がって面貌に一種のきつさが表われているほか、体奥も深さを増してきており、これらを次代への過渡的な様相と解釈すれば、本像の成立は上記二像よりも遅れ、平安最末期から鎌倉初期にかけてのころではないかと考えられる。なお本像の場合、後補されがちな台座(だいざ)と光背(こうはい)もほぼ当初のものを伝える点は貴重である。台座は十二方六段魚鱗葺(ぎょりんぶき)の蓮弁(れんべん)をもつ七重蓮華座(しちじゅうれんげざ)、光背は周縁部を失うが二重円相光(にじゅうえんそうこう)で、外区(がいく)に透彫(すかしぼり)で唐草文様(からくさもんよう)を表している。
写29 長寿寺半丈六阿弥陀如来坐像
以上のような大像の遺存は、平安末期の長寿寺の繁栄を語ってあまりあるものである。いずれも造立の経緯などは判明しないが、収蔵庫の丈六像はむろんのこと、本堂内の釈迦・阿弥陀像にしても、もとは別の堂舎の主尊ではなかったかと推測される。大像造立をささえた往時の長寿寺の経済的な充実を考えるべきであろう。
長寿寺にはさらに一躯の平安仏が存在する。近年までは阿弥陀堂に安置されていた菩薩形立像(ぼさつぎょうりゅうぞう)(県指定)がそれで、明証はないが地元では聖観音(しょうかんのん)とされる。頭上に平安後期に通例の垂髻(すいけい)を結い、天冠台(てんかんだい)を刻出する。左手を屈して胸前に上げ、右手は垂下し、両手で蓮華の茎のような枝状のものをとるかまえをみせる。目を伏せた穏やかな表情、楕円形状の大きな腰裳(こしも)の折返し、静的な姿勢、浅い衣文など、一二世紀の菩薩立像として自然である。根幹部は頭・体を通して前後に二材を寄せており、内刳をおこなって、三道(さんどう)下で割首(わりくび)とする技法・構造もこの時代によくみられる。特に強い印象を与える造形ではないが、よく整った美しい像である。本像もその伝来は不詳とするほかない。