西福(さいふく)寺(大字石部字西清水(にししみず)・浄土真宗)は明応(めいおう)七年(一四九八)僧浄斎(じょうさい)の開基というが、本尊阿弥陀如来立像は一二世紀にさかのぼる古像である。像はその大部分をヒノキの一材から彫出し、内刳を行わない古式の構造をもつ。正面から拝すると、大腿部には刀を入れず、腹部から両脚の間にかけてY字状に衣文を刻出している点が目につく。これに類する彫法は平安初期彫刻にもみられるが、それらが大腿部の圧倒的な隆起による自然な衣文であったのに対し、本像の下半身は肉身を感じさせないうすいもので、ただ表面の衣文形式のみをまねているのである。このような手法は平安末期から鎌倉初期にかけて立像には数多くみることができる。像高九一・〇センチメートルのいわゆる三尺像で、大きさといい作風といい、このようなタイプの阿弥陀立像は在地土豪の持仏堂(じぶつどう)などに安置礼拝されることが多かったものと考えられる。彫法にはやや粗放なところもあり、作者として地方在住の仏師が想定されよう。
次に善隆寺(大字石部字谷町・浄土宗)の本尊阿弥陀如来立像も、西福寺像に似たY字状の衣文を刻む像である。その構造は、頭部と体部前面を一材でつくり、これに体部背面・左右両体側部・裳裾(もすそ)背面部にそれぞれ別材を寄せ、さらに両手先・両足先を矧(は)いでいる。しかしその彫法からみて、当初部分は頭部と体部前面をつくる一材のみで、他はすべて後補にかかるものである。頭部に内刳がなく、また頭・体を割(わ)り矧(は)いでもいないことから、造像当初は内刳を全くおこなわない一木造(いちぼくづくり)の像ではなかったかと推考される。面相部には鼻先をはじめ細かい修補の手が加えられているが、すでに定朝様式とはだいぶん距離がひらき、童顔にちかい可憐な表情となっていることがわかる。このような表情は平安末期から鎌倉初期にかけて、いわゆる藤末鎌初(とうまつけんしょ)の像にときおり見出すことができ、衣文形式や扁平な下半身などもこれに矛盾しない。
善隆寺は石部右馬允家清(いしべうまのじょういえきよ)を本願、覚誉的応(かくよてきおう)を開山として、天正(てんしょう)元年(一五七三)町裏に創建され、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)、現在の石部城趾に移された。寺伝によれば、阿弥陀如来立像は伝教大師の作で、近江源氏佐々木氏より寄進されたという。本願主である石部家清が佐々木義賢(承禎(じょうてい))の家臣であったことや、本像が西福寺像と同様に在地豪族の持仏堂などにまつられるのにふさわしい大きさと作風をもつことなどを思えば、佐々木氏旧蔵の伝には興味をそそられるものがある。
写31 善隆寺阿弥陀如来立像(左)・西福寺阿弥陀如来立像(右)
西福寺像は京都宇治黄檗山万福寺より移安されたという。寺の開基は明応7年(1498)とされるが、本像は時代的にはるかにさかのぼるものである。