吉御子神社の神像

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長寿寺・常楽寺を中心とする平安末期の仏像について述べてきたが、ここで神像彫刻の古例を紹介しておきたい。吉御子神社の吉彦命坐像(重文)がそれで、石部町域における最古の彫像である。像高が七六・〇センチメートルの彩色像で、〓頭冠(ぼくとうかん)をいただき、縫腋(ほうてき)の袍(ほう)を着け、拱手(きょうしゅ)して坐す姿である。ヒノキの竪一材から大部分を彫出して内刳はほどこさず、両膝頭に別材を矧寄せるが、右膝部は欠失し、左膝部は後補のものに変わっている。また巾子(こじ)の大半と鼻から口にかけての部分を欠失する。眉目が強く吊上り、顎髭(あごひげ)は鋭く尖って、その表情は非常に峻厳であり、顎の張った意志的な壮年相をしめす。着衣では、肩から下へ腕に沿って、太いロープ状の衣文と鋭く鎬(しのぎ)だった衣文を交互に配するいわゆる翻波式衣文(ほんばしきえもん)を刻んでいることが目につく。
 神像彫刻は奈良時代から始まった神仏習合(しんぶつしゅうごう)の思潮のなかで、仏像彫刻の影響のもとに誕生した。教王護国寺(きょうおうごこくじ)や薬師寺の八幡神像(はちまんしんぞう)などの九世紀頃の作例をみると、同時代の仏像彫刻と基本的に共通する様式をもつことがわかる。ところが平安後期から鎌倉時代の神像ともなると、首から上だけは写実的・実人的に表現するが、体部の造形には省略が進行し、とくに脚部はきわめて矮小(わいしょう)化したものとなっている。このような神像独自の様式が現れてくるのは、一つには本来神像は社殿の奥深くまつられて人の目にふれるものではないこと、二つめには神像は神の擬人化された表現であると同時に、神の降臨する憑代(よりしろ)としての霊木でもあるという意義をもっていることによるものであろう。この点についてここでは多くを述べられないが、神というものに対する観念ないし認識が、神像彫刻の技法および作風を強く規定していることだけは指摘しておきたい。
 ここでもう一度本像を観察すると、袍(ほう)につつまれた腕の丸みや、腹部における袍の微妙なふくらみと皺の表現にみられるように、まだ写実的な肉体把握が行われている一方、その脚部は別材を矧いで膝を表すもののいくぶん観念的な処置であり、省略が始まっていることは否定できない。加えてその面貌も、平安前期の神像の幽冥性と平安後期以後の象徴性の中間的なものを示しており、これらを総合すると、本像の制作期はほぼ平安中期、一〇世紀後半から一一世紀前半の一世紀の間に求められよう。なお本像と一括して重要文化財に指定されている随身坐像(ずいじんざぞう)一対は、実見の機会を得ないため確かなことはいえないが、少し時代の下がる可能性が考えられるようである。
 吉御子神社の吉御子(よしみこ)は吉比古(よしひこ)・吉比〓(よしひめ)両神の御子神(みこがみ)を意味する。現社地は昔の吉比古神社の故地とみられ、『延喜式(えんぎしき)』神名帳(しんめいちょう)所載の石部鹿塩上(いしべかしおのかみ)神社をこれにあてる説もある。石部山を神体山とする山岳信仰に端を発する神社であると考えられている。

 


写32 吉御子神社吉彦命坐像 重要文化財に指定された、石部町域における最古の彫像である。本像の制作時期はほぼ平安中期と考えられる。