両佐々木氏の動向

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中世近江の主役佐々木氏は、源平の争乱を契機に歴史の表舞台に登場する。この争乱は源頼朝を盟主とする源氏勢力が平氏政権を打倒する戦いであると同時に、頼朝が諸国の源氏を統合していく過程でもあった。それは近江国でも例外ではなかった。ここでは、最初に佐々木氏その他の近江源氏の出自(しゅつじ)を述べたあとで、佐々木氏がいかにして近江国守護(しゅご)の地位を獲得したかという点に関心をはらいながら、源平の争乱をみていこう。
 佐々木氏の名字である「佐々木」は、蒲生郡佐々木荘(安土(あづち)町)に由来する。『近江輿地志略(よちしりゃく)』は、宇多源氏(うだげんじ)の成頼(なりより)なる人物がこの地に移り住んで佐々木氏を称したとしているが、成頼の代に近江に土着し、孫の経方(つねかた)が佐々木荘に移り住んだと考えるのが妥当なようである。
 この「佐々木」という荘名は、古代の蒲生(がもう)郡十郷のひとつである「篠笥郷(ささけごう)」から派生したものである。郷内には式内社沙々貴(ささき)神社があり、佐々木氏が入部する以前には、佐々貴山君(ささきのやまきみ)を称する一族の氏神であった。佐々貴山君氏は、孝元(こうげん)天皇の皇子大彦命につながる狭々城山君の流れをひくと伝えられる古代近江の名族で、奈良から平安時代にかけて、一族から蒲生郡の大領(だいりょう)(郡司)や近江国追捕使(ついぶし)が出ている。このように、伝統ある佐々貴山君氏(以下佐々貴氏と略す)の地盤に、宇多源氏系の佐々木氏が土着したのである。平安後期には佐々貴氏も源氏を称し、佐々木氏を名のるようになった。この両佐々木氏を区別するため、鎌倉初期には佐々貴氏が「本佐々木」を称する場合もあった。

写34 沙々貴神社(安土町) 延喜式神名帳にも名を残し、佐々貴山君の祖神を祀る。社にはためく「四つ目結い」の神紋は、佐々木一族の氏神たる姿を今にしのばせている。

 平安後期ごろは佐々貴氏の方が優勢であった。佐々貴守真(もりざね)は左大臣源有仁(ありひと)に仕えて左大臣家領佐々木荘の下司職(げししき)を得ており、弟行正(ゆきまさ)は前太政大臣藤原忠実(ただざね)や源為義(ためよし)のもとに伺候(しこう)している。源為義は当時佐々木荘の預所(あずかりどころ)であった。佐々貴氏一流が京都の貴族や武士に仕えて、湖東に勢力をふるっていた様子がうかがえよう。一方の佐々木氏は、佐々貴氏との対抗上源義朝(よしとも)の家人(けにん)となったようである。
 保元の乱(ほうげんのらん)から治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)に至る内乱は、両佐々木氏の勢力関係にも影を落とすことになる。保元・平治の乱によって源為義・義朝父子があいついで没落すると、佐々貴氏は平氏政権に従って佐々木荘下司(げし)職に補任(ぶにん)され、領家職(りょうけしき)・預所職は平氏一族の管領するところとなった。一方の佐々木氏は、佐々木秀義(ひでよし)が義朝方についたが、乱後平氏に従うのを嫌って佐々木荘を追われ、関東に下って相模(さがみ)国の渋谷重国(しぶやしげくに)のもとに身を寄せたのである。以後源頼朝の挙兵までの二十数年間、佐々木氏は本拠地近江を遠く離れた坂東で雌伏の時を過ごすが、この間に秀義の子息定綱(さだつな)らは頼朝に近づき側近の一員に加わっている。
 頼朝と佐々木父子の親密な関係は、次に紹介するエピソードからもうかがえよう。頼朝挙兵時には、平氏方が諸国源氏の討伐を計画しているとの情報を平氏家人大庭景親(おおばかげちか)から得た秀義が、嫡男定綱を頼朝のもとに走らせ危機を伝え、一週間後の伊豆国目代(もくだい)・山木兼隆(やまきのかねたか)館襲撃の直前に定綱以下佐々木四兄弟が到着し、頼朝を感激させている。また、寿永(じゅえい)元年(一一八二)冬、政子母子が出産の場から館に戻る際に、佐々木四兄弟が若公(頼朝の長子頼家(よりいえ))の輿を舁(か)いでいる。こうして佐々木氏は近江源氏でありながら、頼朝の側近となり、いわば関東武士の一員として内乱に参加することにより、幕府開設以後の佐々木氏の繁栄の基盤を築いたのである。