写35 園城寺新羅善神堂(大津市) 源義光は、この神前で元服をし新羅三郎義光と名乗った。
頼義の三男で新羅三郎を名のる義光(よしみつ)は、嘉承(かじょう)元年(一一〇六)に甲賀郡柏木郷(かしわぎごう)(水口町)の年貢七二石を新羅明神に寄進し、七年後の永久(えいきゅう)元年(一一一三)には柏木郷とともに山村郷(水口町)を関白藤原忠実(ただざね)のもとに寄進して摂関家の牧としている。翌二年、義光死後の遠忌仏事料の名目で、両郷は長男の覚義阿闍梨(かくぎあじゃり)に譲られた。義光は生前園城寺の裏に金光(こんこう)院を建立し、覚義にその管理を委ねていたのである。覚義は父の遠忌供養を託すため、仁平(にんぴょう)元年(一一五一)に両郷と酒人郷(さこうどごう)(水口町)を弟子に譲るとともに、その経営を弟の義兼(よしかね)に任せた。この義兼の子孫が新羅源氏として近江に勢力を伸ばし、山本・柏木・錦織(にしごり)・箕浦(みのうら)の諸氏に分かれた。彼らも、源為義(ためよし)の近江進出により、為義と主従関係を結んでいたと考えられる。やがて治承・寿永の内乱に至り、義兼の孫たちが歴史の舞台に登場してくるのである。