平治の乱ののち平氏政権を樹立した平清盛は、太政大臣に昇り、天皇の外祖父となり、一族で中央・地方の要職を独占した。その過程で後白河法皇を幽閉するに至り、平氏政権打倒の気運は都鄙(とひ)を通じて高まりはじめた。治承(じしょう)四年(一一八〇)この機運に乗じて、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)は源頼政(よりまさ)・行家(ゆきいえ)らと謀って平氏追討を計画し、行家が諸国の源氏に挙兵を促す令旨(りょうじ)を伝えるとともに、五月、頼政が以仁王を奉じて平氏政権に反旗を翻した。しかし時期尚早であったため、この挙兵は平宗盛(むねもり)軍によって十日たらずで鎮圧され、以仁王と頼政は宇治で敗死した。このように平氏追討の最初の芽は摘み取られたものの、行家が諸国に蒔いた種は、この年の秋から一斉に芽を出すことになるのである。
八月には、伊豆国において河内源氏の流れをひく源頼朝が兵を挙げた。これに際して、前述のごとく佐々木秀義は嫡子定綱らの子息を頼朝のもとに送って挙兵に参加させ、自らものちに頼朝軍に合流している。ついで九月に入ると信濃(しなの)国の源(木曽)義仲・甲斐(かい)国の武田信義があいついで挙兵した。武田氏は新羅三郎源義光の子孫といわれ、甲斐源氏を称した。このほか上野(こうずけ)国の新田氏や常陸(ひたち)国の佐竹・志田氏も独自の行動を起こしていた。このように東国では諸源氏が反平氏の旗を挙げたが、この段階ではまだ頼朝に主導権はなく、それぞれ独立した勢力をもっていたのである。したがって平氏打倒の主導権をめぐって、東国の諸源氏はつねに頼朝に対抗する勢力になる可能性をはらんでいたといえよう。
この間、平氏方も頼朝追討軍を整え、九月二十九日に平維盛(これもり)を総大将として京都を出発した。頼朝はその情報を得ると、十月に鎌倉に入ったのち、対平氏戦の主導権を握るべく西に進み、途中甲斐・信濃の源氏を合流して平氏軍と富士川で対峙し、これを敗走させた。当初の目的を果たしたためそれ以上の追撃は行わず、頼朝は遠江(とうとうみ)国・駿河(するが)国にそれぞれ安田義定(やすだよしさだ)・武田信義(たけだのぶよし)を配置して鎌倉に戻った。関東諸源氏の統合に着手するためである。まず常陸源氏の佐竹氏を目標として、十一月にこれを滅ぼした結果、翌月に新田氏が傘下(さんか)に入り、源義仲は頼朝との対決を避けて信濃に退いた。こうして東国における源氏勢力の主導権はほぼ源頼朝の手に握られたのである。