富士川の戦いは、畿内・近国における平氏政権打倒の動きを刺激することとなった。十一月十七日に美濃源氏が蜂起し、またたくまに美濃・尾張両国が源氏の勢力下に入った。二十一日になると、近江国で新羅源氏が、伊勢に向かう途中の平氏方の飛騨守景家(ひだのかみかげいえ)の郎党を瀬多(大津市)・野路(草津市)で襲い、湖上の船を奪って琵琶湖東岸に着け、湖上交通を不通にした。平氏方が北陸道から京都に運ぶ年貢米・兵糧米を抑留するためである。この首唱者は源義兼の孫である山下兵衛尉(ひょうえのじょう)(山本義経)と、その弟甲賀入道(柏木義兼)とされている。翌二十二日夜には、もと以仁王に仕え、近年は平清盛の家人になっていた摂津源氏の手島蔵人(てしまくらんど)が豊島(池田市・箕面(みのお)市付近)にある居宅を焼き払って、新羅源氏の蜂起に加わった兄に合流する事件も起こっている。
こうして、美濃(みの)・尾張(おわり)国に引き続いて近江国までも源氏の勢力下に置かれる事態となった。新羅源氏は美濃源氏や甲斐源氏、さらには摂津源氏とも連絡を取り合って京都の平氏の動静をうかがったので、京都では近江の源氏が園城寺の僧兵とともに攻め入ろうとしているとの風聞さえ流れた。また、これと相前後して、河内の石川源氏や摂津の多田源氏らも平氏政権に反旗を翻している。
以上のように、治承四年冬には東海・東山(とうさん)道諸国を中心に帯状に源氏の勢力が拡大し、次第に相互の連絡を図るようになった。そして坂東・北陸・東海・畿内近国の四つの勢力が形成されたのである。