十二月に入ると、近江・美濃方面の反乱に対する平氏の反撃が開始された。新羅源氏の蜂起によって、琵琶湖を経由して京都に搬入される北陸道諸国の物資が途絶したことは、平氏政権に少なからぬ打撃を与えたのである。一日、平氏の家人平田家継(ひらたいえつぐ)が伊賀(いが)・伊勢(いせ)国の軍を率いて近江国に攻め寄せ、手島蔵人を討ち取り、柏木義兼の砦を攻略した。翌二日になると、平氏は大規模な追討軍を編成し、近江・伊賀・伊勢方面の三手に分けて反乱軍の鎮圧に向った。平知盛を大将とする近江方面の平氏軍は、三日のうちに近江源氏を美濃国に追い、十一日、追討軍の後方を攪乱する園城寺を焼き払い、十三日には義兼の本拠地柏木御厨(みくりや)近くの馬淵(まぶち)城(近江八幡市)を落とし、十六日、義経の本拠山下城を囲んだ。こうして年内に近江国を鎮圧し、翌年三月中には美濃方面の平定を完了した。この間、反乱鎮圧には畿内近国武士を直接支配する必要があると判断し、平清盛は嫡男宗盛を五畿内及び近江・伊賀・伊勢・丹波(たんば)の惣管に任命してこの方面の追捕・検断(けんだん)権を掌握させ、臨戦体制を整えた。
このように平氏方は勢力を挽回したものの、一門の棟梁清盛が閏(うるう)二月に病死し、さらにこの年から始まった全国的な飢饉が寿永二年(一一八三)まで続いたため、源平双方とも大規模な軍隊を編成できず、東海・東山道方面の戦線は膠着(こうちゃく)状態となり、一時的な均衡状態が生れたのである。