義仲入京と新羅源氏の動向

134 ~ 136ページ
美濃・尾張国の戦闘が一段落したころから、北陸道方面の源義仲の活動が始まった。平氏は養和(ようわ)元年(一一八一)からたびたび北陸道方面に追討軍を派遣したが、寿永二年夏、義仲は越前(えちぜん)国から加賀(かが)国に駒を進め、七月に近江国に入り、比叡山に登って京都をうかがった。同じころ、伊賀・大和方面から源行家が、摂津国からは多田行綱(ゆきつな)が京都に迫っており、後白河法皇も新羅源氏を頼って比叡山に登った。このためついに平氏は安徳(あんとく)天皇をともなって西国に逃れ、法皇・義仲は都入りした。法皇は早速義仲・行家に平氏追討を命じるとともに、頼朝に対しても速やかに上洛するよう促した。ここに源氏は反乱軍の汚名を返上し、官軍としての立場を確保したのである。
 しかし、この時点でも諸国源氏は独自の立場で軍を編成しており、誰を棟梁とあおいで平氏追討にあたるかという問題は解決されていなかった。当然関東諸国の源氏を組織した頼朝と、北陸道の武士を組織して都に攻め登った義仲がその最右翼で、両者とも河内源氏の本流為義の孫にあたり、血筋からも申し分のない条件をそろえていた。すなわち頼朝は為義の長男義朝の子息、源義仲は為義の次男義賢の子息だが、両者は保元の乱にみられたような為義と義朝の争いを受け継いで対立していた。法皇には両者の対立を巧みに利用して、平氏政権の打倒を果たそうとする意図がみられた。治承四年以来の勲功については頼朝を第一、義仲を第二、源行家を第三と評価しながら、平氏の旧領を没収して(平家没官領)義仲・行家に与えたのはその表れであろう。
 このころには新羅源氏は近江国に戻っており、山本義経の子息錦織義高は法皇還御の際の前行(案内役)を勤めている。義高はのちに法皇と義仲が対立したときにも法皇方につき、父義経とは別行動をとった。その義経は義仲方の武将として京中守護の一人に加えられ、義仲政権下で伊賀守や若狭守を歴任している。いずれにせよ、新羅源氏は近江国で平氏打倒の先陣を切った栄誉を担ったにもかかわらず、義仲や院方についたために近江国における主権を握れなかったのである。またこのほかに義仲に従った武将として、摂津・美濃・尾張・甲斐・信濃諸国の源氏がおり、義経同様京中守護に任じられている。
 入京後の義仲は、軍規紊乱(びんらん)と皇位問題で法皇との間に溝が生じたが、平氏追討に向かって京都を留守にした隙に法皇が頼朝に与えた寿永二年十月宣旨(せんじ)によって、両者の対立は決定的となった。この宣旨は頼朝の東国行政権を承認したものであるが、義仲を恐れて削除されたものの、当初は頼朝の勢力圏の東海・東山道に加えて、義仲の基盤北陸道も含まれていたらしい。頼朝はこれにこたえて、弟義仲の率いる軍勢を伊勢国まで進めている。しかも、これを契機にそれまで従っていた諸国源氏の中に義仲のもとを離れる者が出始めた。行家は義仲とは別行動をとり、播磨(はりま)方面に向かった。また摂津・美濃源氏は法皇の指揮下に入っている。こうした法皇―頼朝方の動きに警戒を強めた源義仲は、十一月、クーデターを起こして法皇を幽閉した。これを知った頼朝は弟の義経・範頼に義仲の追討を命じ、翌元暦(げんりゃく)元年(一一八四)正月、義仲を宇治・瀬多に破って敗死させた。

 


写36 義仲寺木曽義仲の墓(左)・今井兼平の墓(右:ともに大津市) 義仲寺は寿永4年(1184)この地で敗死した義仲を弔って巴御前が建てた一草庵が開基とされる。義仲の家人で木曽の四天王と呼ばれた今井兼平は、義仲討死ののち粟津で自害した。