佐々木氏の近江帰還

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一の谷の合戦後、佐々木秀義は近江国に戻って地盤を固めつつあった。しかし同年七月、伊賀国で平氏家人の平田家継(いえつぐ)が、伊勢国では伊勢平氏の和泉守平信兼(のぶかね)が蜂起し、鈴鹿山を占拠して交通を遮断した。家継らが近江をぬけて京都をねらう気配を察した秀義は、近江国の平氏に動員を懸け、自ら甲賀武士を率いて大原(おおはら)荘(甲賀町)へ出向き、伊賀国「一国守護(いつこくしゆご)」(惣追捕使(そうついぶし))(『吾妻鏡(あずまかがみ)』元暦元年八月二日条)大内惟義らと合流して油日(あぶらひ)神社付近に陣どった。平氏軍は伊賀国平田から出て近江国甲賀郡の上野村(甲南町)などに陣を張り、両軍は油日川をはさんで対戦した。平氏方は平田家継以下九〇余人が討たれ、信義らは鈴鹿山中に敗走したが、秀義も敵の矢に当って戦死した。
 秀義の戦時におけるすばやい行動の背景には、佐々木氏が近江国における軍事指揮権を掌握していたことが考えられる。さきに述べたように当時の近江国は源義経の管轄下にあったため、伊賀国の大内氏のような「一国守護」を拝命しなかったのであろう。このような近江国における佐々木氏の地位は、秀義の嫡男定綱に継承された。『吾妻鏡』文治三年(一一八七)二月九日の条に、近江国の「守護定綱」とあるのがその初見史料である。ここにみえる「守護」は文治三年当時の職称では惣追捕使が正しい。史料からは確認できないが、鎌倉幕府の職制の変化に即応して定綱も近江国守護職に補任されたと考えてよい。近江守護職は以後定綱流に伝えられ、鎌倉・室町期を通じての近江国の盟主の地位を確立していった。また、定綱を含む秀義の五人の子息は、源平の争乱における度たびの軍功により、あわせて一七ヶ国の守護職に補任されたと伝えられている。
 古代近江の雄佐々貴氏は平治の乱後平氏政権に従い、平氏西下ののち頼朝の傘下に入って一の谷の合戦に参加している。このとき佐々貴俊綱(としつな)は平氏一門の通盛を討つ功名をあげた。後日俊綱の父成綱が関東に恩賞を求めたが、今まで平氏に仕えていたことを理由にいったんは拒絶され、翌文治元年十月になってやっと佐々木荘内の本領を安堵(あんど)された。しかし同時に佐々木荘の総管領である佐々木定綱に従うべしとの但書が添えられた。こうして近江国における両佐々木氏の立場は完全に逆転し、佐々貴氏は両佐々木氏の氏神佐々貴神社の神職を世襲し、佐々木氏の被官化していった。