山門と佐々木氏

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近江国には南都とともに寺家の最高に位置する延暦寺がある。そのため、近江国守護は中世を通じて山門と交渉をもたざるをえなかった。伊勢斎宮(さいぐう)が京都から伊勢神宮へ向かう途中、近江国内では瀬多(大津市)と甲賀(水口町)で駅を提供するのが通例であるが、定綱は文治三年と建久元年(一一九〇)の二度これに関わった。文治三年、瀬多橋が破損したので定綱が船を用意して斎宮を湖上から渡そうとしたときに、定綱の郎党と延暦寺所司との間に争いが起こり、所司の中に死人が出た。延暦寺側は定綱らに非ありとしてただちに嗷訴(ごうそ)におよんだが大事には至らなかった。
 この一見些細な事件の底には、山門の鎌倉幕府に対する不信感が流れており、それが近江国における幕府方の代表である守護佐々木氏に向けられたのである。比叡山と対立する存在の園城寺は源氏にゆかりの寺で、頼朝も内乱中に近江国横山(蒲生町)などの土地を同寺に寄進している。他方、延暦寺は平氏と近い関係にあり、寿永二年(一一八二)、平氏は延暦寺の千僧供養料(せんそうくようりょう)として佐々貴氏との関係で入手した佐々木荘の領家・預所職の得分(とくぶん)を寄進している。さらに、頼朝と対立して追われる身となった源義経を山門がかくまうという事態が生じてから、両者の関係は一段と悪化したのである。これが守護佐々木氏の本貫(ほんかん)佐々木荘をめぐる事件によって一挙に表面化したのは建久二年(一一九一)のことである。
 この年の三月、佐々木荘の前年分の千僧供養料が滞納されていることに立腹した山門側は日吉社の宮仕(みやじ)に命じて下司定綱の居宅を襲わせた。定綱は不在であったが、子息定重(さだしげ)の反撃にあって山門側は死者を出すとともに持参した神鏡も破壊された。山門の衆徒は朝廷と幕府に佐々木父子の引き渡しを要求し、父子を流罪に処すことで事態は収拾した。ところが事件の張本人として定重は流刑を改められ斬首に処せられた。定綱は二年後に許され、帰国後頼朝から近江守護職と本領の回復に加えて新たに長門(ながと)・石見(いわみ)の守護職といくつかの所領を与えられた。武家方にとって、幕府開設早々、山門の力を見せつけられた事件だったと言えよう。