承久の乱と佐々木氏

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畿内近国の守護は在京御家人として洛中警固にあたることが多く、後鳥羽(ごとば)上皇は彼らの多くを検非違使(けびいし)や北面(ほくめん)・西面(さいめん)の武士に補任して自らの指揮下に組み入れていった。上皇が倒幕の決意を固めた当時の近江国守護は、佐々木定綱の嫡子男広綱(ひろつな)であるが、彼もまた検非違使にして院の北面であり、承久の乱(じょうきゅうのらん)の直前には、上皇によって山城国守に任じられている。
 乱は承久(じょうきゅう)三年(一二二一)五月、執権(しっけん)北条義時(よしとき)追討の宣旨によって始まった。佐々木一族はこのとき上皇方と幕府方に分かれて戦っている。上皇方についたのは広綱父子のほか、秀義次男経高(つねたか)とその嫡男高重(たかしげ)であり、幕府軍に加わったのは広綱の弟で当時鎌倉にいた信綱(のぶつな)とその子重綱(しげつな)、秀義三男盛綱(もりつな)の子信実(のぶざね)である。乱の勝敗を決定づけた宇治川の合戦では、信綱が宇治川の先陣をきる働きで幕府軍を勝利に導いた。乱は上皇方の完敗におわり、佐々木一族では経高が自害、広綱父子は斬罪に処せられた。
 この結果広綱流は断絶し、代わって信綱流が佐々木氏嫡流となり、近江守護職と佐々木荘を継承した。信綱は北条泰時(やすとき)の妹婿という関係にあることから幕府に厚遇され、評定衆(ひょうじょうしゅう)の一員に加えられた。また朝廷にも接近し、成功(じょうごう)(一種の売官の制度)により近江国守の地位も獲得している。このように佐々木氏本流は、定綱以後在京御家人(ざいきょうごけにん)として一時朝廷に近い勢力となったが、承久の乱で広綱から信綱へ本流が移ることにより、再び関東との関係が密接となった。しかし朝廷との関係は冷却したのではなく、信綱の成功に見られるような関係は継続した。円滑な公武関係を築こうとする幕府にとって、双方につながりのある佐々木氏の存在は貴重であり、むしろ幕府が働きかけて朝廷との関係を継続させた側面も考えられる。いずれにせよ、このことが以後の佐々木氏の動向に影響を及ぼすことになる。