将軍家政所下す
補任す、地頭職の事。近江国石部庄住人三郎左衛門久綱、右人承久兵乱に近江守信綱の手に属し、宇治河闘ひの軍功の勧賞、彼の守護職たるべきの状、仰する所件の如し。以て下す。
補任す、地頭職の事。近江国石部庄住人三郎左衛門久綱、右人承久兵乱に近江守信綱の手に属し、宇治河闘ひの軍功の勧賞、彼の守護職たるべきの状、仰する所件の如し。以て下す。
(原漢文)
貞応元年五月五日
案主左近衛将曹菅原
知家事門舎人 清原
令左衛門少将藤原
別当相模守平朝臣
武蔵守平朝臣
しかしこの文書は以下の点で疑問が残る。第一に、署名にみえる相模守・武蔵守はそれぞれ北条時房・同泰時であるが、両人は貞応元年当時六波羅探題の職について京都に在住しており、鎌倉にいる将軍家の文書に名を連ねることはできない。第二に、承久の乱から貞応元年にかけて、幕府が地頭職の補任に用いた文書を確認したところ、関東下知状(げちじょう)がほとんどで、将軍家政所下文(まんどころくだしぶみ)は一通もなかった。しかも地頭職補任に関する文書はすべて執権北条義時が署名しており、彼の名前が見えないのも不自然である。第三に本来ならば「石部荘地頭職」というように、所職の及ぶ範囲を明示するのが原則であるのに、単に「地頭職」としか書かれていない。これでは石部荘に置かれる地頭かどうか不明で、のちに混乱を招くような文書を幕府が作成したとは考えにくい。
しかし「石部家系図」はこの史料に続けて、久綱が将軍頼経の上洛時に野路(のじ)駅(草津市)の警固を担当したことを次のように記している。
頼経将軍、嘉禎(かてい)四年(一二三八)正月御上洛。二十八日鎌倉を進発、二月十六日野路駅に着く。久綱らこの時警固す。同路次十月還御。十四日箕浦御宿の時も同じ。
(原漢文)
ここに記されている日時・地名は『吾妻鏡』の内容と一致する。のちに書かれたものにせよ、この時期の当該地域の正確な知識がなければ書けない内容である。したがって、鎌倉中期から石部荘が存在し、地頭石部氏が支配していたとは、ただちには認めがたいが、この文書作成にあたっては、一二二〇年から三〇年代のこの地域の正確な知識をもつ人物が関与したことは推測できよう。そのことを念頭に置いてあらためてさきの下文を検討すると、両名が六波羅探題に在職しているのは承久の乱の乱直後からの四年間という短い期間である。その中に貞応元年が含まれていることから、文書作成者が承久の乱前後の出来事に非常に敏感であったと考えられる。そうするとこの文書作成の目的も、地頭職補任よりも、承久の乱の際にこの文書の作成者またはその先祖が幕府方に味方したことを主張することにあったのではないだろうか。嘉禎四年の頼経上洛時の文章の意図も、この文脈で読み取ると、幕府とのつながりを主張するものであったと推測できる。即断は避けたいが、このような内容の文書が作成された時期のひとつの可能性として、文書作成者の家が六角氏またはその守護代馬淵氏の被官化していく時期が挙げられる。佐々木氏がよく用いる「綱」の字が石部久綱なる人物にもみられるのは、この家が佐々木氏の出身であることをさりげなく主張しており、そのような意図が働らく時期を右記のあたりに考えたい。