争乱の始まり

147 ~ 148ページ
建長二年(一二五〇)六角泰綱(ろっかくやすつな)の次男が執権北条時頼(ほうじょうときより)の邸で元服し、頼綱(よりつな)を名乗った。このころの朝幕関係は安定していたが、文永十一年(一二七四)からの二度にわたる元の襲来を契機に関東では北条得宗家(とくそうけ)(北条氏の嫡流の当主の家)に権力が集中し、御家人の不満が募りはじめた。幕府は皇位継承にも関与し、後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)没後に持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)に分かれて対立する天皇家は幕府の介入を阻止(そし)しえなかった。このような中で文保(ぶんぽ)二年(一三一八)、大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇が即位すると、天皇親政政治を理想に掲げ幕府討伐を企てるにいたった。
 最初の倒幕計画は未然に発覚し失敗に終ったが(正中の変(しょうちゅうのへん))、後醍醐天皇はこれに屈せず、山門や商工業者、楠木正成(くすのきまさしげ)らの武士を味方として、元弘(げんこう)元年(一三三一)再度倒幕を図ったもののこれも発覚し、後醍醐天皇は隠岐(おき)に流された。しかし後醍醐天皇の発した幕府打倒の号令は諸国武士を動かし、同三年五月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が六波羅探題(ろくはらたんだい)を、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を落として幕府を倒し、翌六月後醍醐天皇は京都に戻って政権を掌握した。
 建武(けんむ)の新政と呼ばれる、延喜(えんぎ)の治世を一つの理想とするこの公家中心の政策は、当時の社会の実状にあわず、とりわけ諸国武士のかかえた課題を解消するにいたらなかった。これを非として足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府を開いて南北朝の争乱の幕が明けられた。争乱は南朝(後醍醐方)と北朝(幕府方)の対立に加えて、幕府内部の抗争もあって混迷し、、半世紀に及ぶ全国規模の内乱となった。
 建武三年(一三三六)正月、尊氏は関東から京都に攻め上ったが新田義貞らに敗れて西に下った。九州で態勢をたてなおした尊氏は、同年四月博多を出発、西国武士を自軍に付けながら東上し、持明院統の光厳(こうごん)上皇の院宣を得て勢いを付け、五月、兵庫湊川(みなとがわ)(兵庫県神戸市)で楠木正成を倒し、六月には光厳上皇を擁して京都に入った。十月には後醍醐天皇との和議が成立し、翌月後醍醐天皇から光明(こうみょう)天皇(光厳上皇弟)に神器が譲られ、尊氏は建武式目(しきもく)を制定して室町幕府の体制を整えた。
 しかし翌十二月、後醍醐天皇は京都をひそかに脱出して吉野へ逃れ、南朝と北朝の分裂が始まった。後醍醐天皇は各地に皇子や近臣を派遣するとともに、自らは大和・和泉・紀伊・伊賀方面の修験者(しゅげんじゃ)・供御人(くごにん)・商人・水軍・悪党らを味方に付けて退勢の挽回を図った。しかし二年後の延元三年にはそれぞれ畿内・北陸方面の主力であった北畠顕家(あきいえ)・新田義貞が戦死し、翌四年には後醍醐天皇も吉野で十二歳の後村上(ごむらかみ)天皇に譲位したのち死去した。以後、京畿の戦闘はしばらく途絶え、正平二年(一三四七)から河内・摂津国方面で楠木正成の子正行(まさつら)が幕府軍を悩ませる存在となったものの、翌三年正月、四条畷(しじょうなわて)(大阪府四条畷市)の合戦で戦死、吉野にも危険が迫り、後村上天皇は行宮(あんぐう)を紀伊国境近くの賀名生(あのう)(奈良県西吉野村)に移さざるをえなくなった。