幕府方の内紛

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ここに南朝方の劣勢は決定的となったが、このころから尊氏の弟直義(ただよし)と執事高師直(こうのもろなお)の対立が表面化する。室町幕府はその成立当初から尊氏が武家の棟梁として諸国武士を指揮し、直義が国政の実務を担当する二頭政治を行っていた。この尊氏の軍事指揮権は侍所長官高師泰(もろやす)と執事師直の兄弟が代行する体制がこのころには整えられていた。高兄弟は戦時の勲功を重視したので、彼らの下には既得権を持たない庶子家(しょしけ)や非御家人らの新興勢力層が結集した。一方、平時の法令や制度を尊重する直義の下には鎌倉幕府以来の御家人や惣領家(そうりょうけ)が集り、権門寺社も彼を支持した。こうして諸国武士のかかえた利害関係の矛盾が、直義派・師直派の対立という形をとって先鋭化したのである。近江国守護(しゅご)佐々木氏の惣領家六角氏頼(うじより)が直義派に、庶子家京極高氏(きょうごくたかうじ)(導誉(どうよ))が師直派に分かれたのはその典型である。
 以上の背景から両派の対立は避けられない状態となり、貞和(じょうわ)五年(一三四九)八月、師直の強請による直義の失脚を契機に、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる幕府の内紛が開始する。前半はすきをみて直義が高兄弟の殺害に成功し、後半は尊氏・直義兄弟の対立から、文和(ぶんな)元年(一三五二)尊氏による直義の殺害という経緯で乱は展開するが、この間両派は戦略上度々南朝に帰順したため、南朝方は一時勢力をたてなおし、正平十六年(一三六一)まで前後四回に渡って京都を奪取した。
 しかし尊氏から嫡子の義詮(よしあきら)に将軍職が移るころから両派の対立は下火となり、南朝も正平十六年を最後に京都を脅かす存在ではなくなった。にもかかわらず、争乱が以後三〇余年継続するのは幕府が台頭する守護勢力を統制できず、しばらくは幕府内部で有力守護を中心とした主導権争いが繰り広げられたためである。二代将軍義詮が短命で世を去り、ついで将軍職を継いだのが十歳の少年義満(よしみつ)であったことがそれに拍車をかけたが、それも義満が成年に達すると実力を発揮しはじめ、明徳(めいとく)から応永年間に、土岐(とき)・山名・大内といった有力守護を次々に打倒して幕府権力の安定化を導いた。そして明徳三年(一三九二)南朝の後亀山(ごかめやま)天皇と和議が成立し、争乱が終息を迎えたのである。

写37 室町幕府跡碑 京都市中京区今出川通室町の北東角にある。