南北朝の争乱は一面において首都争奪戦の様相を呈したが、京都は地理的条件から防衛には不向きであり、その初期において後醍醐天皇方は作戦上しばしば比叡山に登った。これに対し足利尊氏方は京都側からと大津側から比叡山を挟撃にする作戦をとったため、近江国は両勢力が衝突する主戦場となった。とりわけ東海・東山道の集中する野路(のじ)(草津市)や比叡山の麓で水陸交通の要衝である坂本・大津・瀬田方面で激戦が繰り広げられた。また京都を追われて吉野に入ってからの南朝勢力は、伊勢・伊賀をぬけて甲賀郡の油日(あぶらひ)(甲賀町)・杣(そま)(水口町)・信楽(しがらき)(信楽町)を近江国内の拠点としてしばしばゲリラ戦を展開した。
乱の初期においては治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱期と同様、山門・寺門・近江源氏が独自の行動を示した。当初山門が後醍醐方に従い鎌倉幕府、ついで尊氏方と対立したのに対し、寺門は源氏の守護神新羅明神をめぐる因縁から尊氏方に与(くみ)した。また近江源氏佐々木氏の場合、京極氏が鎌倉幕府打倒のため尊氏が兵を挙げた当初からその主勢力であったのに対して、惣領家六角氏は争乱期の対応に苦慮した様子がうかがえる。鎌倉幕府滅亡までは守護の立場から六波羅探題(ろくはらたんだい)に従い、室町幕府成立直後は雌伏(しふく)の時を過ごし、近江国守護職に復権して後も観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に際して一時直義(ただよし)方に従っている。
ここにみられる両者の姿勢の相違は京極氏が近江一国を越えて中央政権に野心を抱いたのに対し、六角氏が守護家の伝統と鎌倉期後半から展開した領国経営の姿勢から近江国内の情勢を重視する立場をとったところから生じたと考えられる。したがって近江国からこの争乱期を見るには、六角氏の対応に注目するのもひとつの方法である。その場合、頼綱の孫時信が北条氏に従って後醍醐方に敵対し鎌倉幕府滅亡直前に降伏するまでを第一期、建武政権誕生から暦応(りゃくおう)元年(一三三八)時信の子氏頼が近江国守護に復権するまでを第二期、観応の擾乱で観応二年(一三五一)に氏頼が守護職を引退するまでを第三期、文和(ぶんな)三年(一三五四)氏頼が再び守護職に補任されるまでを第四期、それ以後を第五期と考えることもできよう。このうち近江国内で特に戦闘が集中するのは第二期と第四期であり、いずれも近江国守護としての六角氏の地位が空白かあるいは不安定な時期に相当している。