氏信の没後、四男宗綱が家督を継いだものの子息が相次いで死亡したため、宗綱の兄満信の孫である高氏が少年期に当主となった。成年にいたり鎌倉幕府評定衆(ひょうじょうしゅう)に加わり、得宗(とくそう)家との関係を深め北条高時の出家に行動をともにし、剃髪して導誉と称した。他方朝廷からも検非違使(けびいし)を拝命している。元弘の変(げんこうのへん)では幕府方について、後醍醐天皇の隠岐配流の道中警備にあたったり、乱の主謀者のひとりである北畠具行(ともゆき)を柏原(山東町)で斬首している。しかしその翌年、尊氏が倒幕軍を編成して京都をめざすとそれに従い、建武政権下では雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)奉行人を勤めた。尊氏が後醍醐天皇から離反して関東に下ると一時京都方についたものの、尊氏が自ら兵を指揮して関東を出ると再びその傘下に入り、以後室町幕府の重鎮として政所執事(まんどころしつじ)・評定衆・引付頭人(ひきつけとうにん)といった幕府中枢の職務や若狭・近江・出雲・上総・飛騨の守護を歴任した。導誉は京極氏で最初に守護に補任された人物であり、京極氏が三管領四職(さんかんれいししき)といわれる幕府の重職の一郭を占める道を開いた。
導誉は時の情勢を読み取る能力にたけ、変わり身の早い人物と評価されているが、尊氏が自ら行動を起こすときには従っているところを見ると彼に京極氏の命運をかけたという見方もできよう。近江国内では佐々木氏庶流の立場に甘んじなければならなかった京極氏にとって、この動乱期は躍進の絶好の機会であったのである。足利氏の側近的な性格は導誉以後も受け継がれ、延文(えんぶん)三年(一三五八)足利義詮(よしあきら)への将軍宣下(せんげ)の時、導誉の孫秀詮が宣旨の受取役を勤めている。こうした姿勢から尊氏に重用され政権の中枢に位置するに至ったが、そのため逆に近江一国に集中できず、幕府からしばしば国内の統轄を委(ゆだ)ねられたものの結局は六角氏にその役割を譲らねばならなかったのである。近江国内においては鎌倉期と同様守護家六角氏を牽制する立場にまわり、幕府から東山・北陸道の要衝をおさえる所領を与えられた。
鎌倉期以来、佐々木氏と山門との関係には微妙なものがあったことは前節で述べた通りであるが、佐々木定綱のときに起こった山門事件と同様の事件を導誉が起こしている。暦応三年(一三四〇)、京都白川の天台系門跡寺院妙法院の坊官と導誉の家来とのいさかいから妙法院を導誉方が放火する事件が生じ、山門の抗議によって導誉父子は官位を解かれ出羽・陸奥への配流が決定した。配流先へ赴く道中の導誉の行粧(こうしょう)は人々の耳目を驚かせ、「ばさら大名」としての名を高からしめた。結局この処分はうやむやのうちに終り、翌年八月伊勢方面で南朝方の活動が活発化すると導誉は幕府軍に加わって出動している。佐々木定綱の子定重が斬首されたことを考えると、この一世紀余りのうちに山門と武士勢力との力関係に大きな変化があったことが知られよう。
写38 佐々木導誉書状 導誉が長寿寺衆徒に祈祷を願ったもの。(暦応元年ヵ)9月25日付『長寿寺文書』