六角氏の動向

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延慶(えんきょう)三年(一三一〇)、五歳の少年が近江国守護家の当主となった。六角時信である。京極高氏と同様本来ならば家督を継ぐはずの伯父や父が病没などのため、頼綱の三男盛綱の子時信が頼綱の猶子(ゆうし)となったのである。
 二〇代半ばで元弘の変(げんこうのへん)を迎えた時信は六波羅探題の命令を受けて出陣し、唐崎の浜(大津市)で山門勢力と衝突し敗れている。その後本国を離れて後醍醐方との合戦を重ね、六波羅探題陥落の後関東に向う北条仲時(なかとき)に従って近江国に入り、最後は討手のひとり京極導誉をたよって降伏した。ちなみに尊氏は仲時を番場(ばんば)の宿(米原町)で滅ぼして間もなく、元弘三年(一三三三)五月二十三日付の制札を長寿寺に出し武士による乱暴狼藉を防いでいる。建武政権下、時信は導誉とともに雑訴決断所の奉行人に任命されるが、尊氏の離反により建武政権が崩壊すると、時信も歴史の舞台から姿を消す。
 建武(けんむ)二年(一三三五)、北条時行を討つために鎌倉に下った尊氏は、十二月後醍醐天皇に反旗を飜して箱根・竹下で新田義貞(にったよしさだ)の軍を破って京都をめざし、後醍醐方が伊岐代(いきしろ)宮(草津市)・瀬田・宇治方面に敷いた防衛線を突破して京都に迫った。そのため後醍醐天皇は翌年正月京都を捨てて坂本へ入った。陸奥(むつ)から駆けつけた北畠顕家が尊氏方に味方する六角氏の観音寺城(安土町)を落として坂本に合流すると、退勢を挽回した後醍醐方は尊氏方の園城(おんじょう)寺(三井寺)を攻め、その余勢をかって京都を攻略し尊氏を丹波方面に追った。
 九州で態勢をたてなおした尊氏軍が四月九州を出陣し、翌月、摂津国湊川(みなとがわ)で新田義貞・楠木正成(くすのきまさしげ)の敷く防衛線を突破して再び京都をうかがうと、後醍醐天皇もまた比叡山に登った。尊氏は京都に入ったのち六月山門攻めを敢行するが、逆に後醍醐軍から京都を脅かされるなど効を奏さなかった。この時期近江方面の軍事指揮権を与えられていたのが導誉である。山門勢力がさかんな限り近江国を制圧できないと判断した尊氏は、七月に至って比叡山への補給路を絶つ作戦にでた。まず小笠原貞宗(さだむね)を瀬田方面に待機させて山門勢力を牽制し、ついで導誉に貞宗の応援を命じた。導誉は京都から若狭国を経由して湖東を制圧した。こうして補給路を絶たれた後醍醐方は次第に不利になり、ついに十月後醍醐天皇は降伏して比叡山を降り神器を光明(こうみょう)天皇に譲った。翌十一月尊氏は幕府を開設して混乱が収まったかに思われたが、十二月、後醍醐天皇が密かに京都を脱出し吉野に入ってから南北朝の分裂が始まった。なおこの年十二月から短期間ではあるが導誉は若狭国守護に補任されている。

写39 足利尊氏制札 元弘3年(1333)5月23日、長寿寺にあてて出されたもの。文字は判読しにくいが、写真は赤外線撮影で部分拡大したもの(長寿寺所蔵)。

 この間甲賀郡では後醍醐方(以後南朝方と記す)の頓宮(とんぐう)弥九郎が五辻宮を奉じて信楽に城を築き、尊氏方は小佐治(こさじ)基氏が油日嵩龍山寺城を拠点とした。南朝方の動きは後醍醐天皇が吉野に入ったことにより活発化し、翌建武四年(一三三七)信楽で兵を挙げた。これを鎮圧すべく小佐治は幕府軍と合流して信楽に入り、付近を焼き払った。翌年二月関東から北畠顕家が伊賀・伊勢方面に侵攻する動きをみせたので小佐治・山中道俊らが鈴鹿関をふさいでこれに備え、あわせて鈴鹿山麓の鮎川城に拠る頓宮弥九郎を攻撃した。三月には南朝軍が野川・龍法寺・杣中に転戦したので、導誉の指揮下小佐治・山中は広徳寺でこれと戦闘を繰り広げた。そして四月山中・柏木らが頓宮弥九郎を伊勢方面に落としてこの地域の戦闘は一段落した。また戦局全体を見渡しても、この年の五月と七月に新田義貞と北畠顕家が相次いで戦死したことにより南朝軍の不利は明らかになった。
 この一連の戦闘における論功行賞のためであろうか、四月に導誉が近江国守護に任ぜられている。しかし導誉がこの地位にいたのは数ヶ月のことで、秋には時信の子氏頼が近江国守護に補佐された。短期間でその地位が京極氏から六角氏に戻されたのである。守護に就任してからの近江国内は比較的安定した状態が続いたので、氏頼は高師直(こうのもろなお)の指揮の下、主として畿内の南朝軍との合戦に参加し、貞和(じょうわ)三年(一三四七)藤井寺・住吉・四条畷(大阪府下)方面における楠木正行(まさつら)との合戦に際しては、伊庭・平井などの近江国内の家臣を率いて従軍している。
 観応元年(一三五〇)十月、足利直義が京都を脱出し、翌月南朝に投降して河内国で挙兵した。以後、文和元年(一三五二)まで幕府方は尊氏党と直義党に分裂して相争い、これに南朝方がからむことによって複雑な情勢が展開する。
 甲賀郡の南朝勢力は直義党と結んで活動を再開させた。観応元年十一月、直義の命を受けて甲賀郡に入った上野直勝は儀俄・高山・大原らと語らって、油日の善応寺(甲賀町)を振り出しに東海道を進撃、近江守護氏頼の弟山内信詮を三上山・野洲河原で撃破し、瀬多橋を防衛線とした守護代伊庭をも破って京都をうかがう勢いを見せた。これに対し幕府の命を受けた氏頼は、本拠地佐々木荘に帰って軍勢を整え、十二月十日守山で直勝軍をくい止めた。このころまで、氏頼は先の摂津・河内方面の戦闘で高師直に属した関係から、尊氏・師直方の武将として活動している。
 しかし近江方面で激戦が展開している間に直義は洛南の八幡を占拠して京都を挟撃するかまえを見せた。このため尊氏側の劣勢が決定的となり、翌年正月中旬、尊氏・師直らは丹波をめざして京都を落ちていった。主を失った氏頼はやむなく本領安堵を条件に直義に降伏した。ちなみに京極導誉はこのときも尊氏に従っている。
 尊氏・直義兄弟の争いは、二月の高兄弟の死と引き換えに収束したかにみえたが、同年夏には早くも両者の不和が再燃しはじめた。その対応に苦慮した氏頼は、六月家督を二歳の千手丸に譲って突然の出家を遂げ、高野山に隠棲した。六角氏の家督は再び幼児の手に委ねられたのである。他方京極氏の当主導誉は尊氏方の勢力回復にめざましい働きを見せている。七月下旬、尊氏は近江で反旗を翻した導誉を討伐すると称して京都を出、石山(大津市)に陣を敷いた。先に別の口実を設けて尊氏の子息義詮が東寺(京都・教王護国寺)に陣を敷いており、導誉謀反は直義を挟み撃ちにするための口実であることは明らかである。身の危険を感じた直義は越前に逃亡し、ここで陣容を整えて近江に進出、これを追って八月、尊氏軍も近江に入り、再び近江国内が戦場となるのは必至となった。幼児千手丸の後見人となった氏頼弟定詮はこのとき湖北に赴いて直義党に与する態度を表明した。
 尊氏党と直義党は九月に入って、観音寺城・八相山(東浅井郡虎姫(とらひめ)町)・蒲生野と転戦し、特に蒲生野の戦いでは京極導誉と山内定詮が衝突し、定詮が導誉をその本拠地甲良(こうら)荘まで追い落としている。その後十月には興福寺(東浅井郡びわ町)において尊氏と直義との間で和議が図られるものの決裂し、直義が関東に下るに至った。そのため近江国内の直義党は分裂し、南朝勢力も後退した。尊氏は直義を追うため一時南朝と和談し、十一月に京都を進発、翌年二月に鎌倉で直義を殺害して兄弟間の対立に決着をつけた。ところが翌閏二月に尊氏不在中の京都を南朝軍に襲われたため、義詮は導誉を頼って近江国に逃れ、三月中旬には南朝軍を京都から追い払った。しかし観応の擾乱を通じて生じた幕府方の分裂は深刻で、一時的にではあれ、今回を含めて前後四回にわたって南朝軍に京都を奪われる事態が発生する。
 幕府方はこのような南朝軍の侵攻に対処するため、文和元年七月六角・土岐などの守護勢力に応援を求め、兵糧米確保のため彼らの守護国である近江・美濃・尾張の寺社本所領・国衙(こくが)領の年貢の半分をそれに充てることを法令で公認した。この半済(はんぜい)令は翌八月には伊勢・志摩・伊賀・河内・和泉の畿内近国も適用されるに至り、守護権力の強大化をもたらした。また近江国内の武士勢力を幕府方にまとめる方策として、前年の十二月に京極導誉に佐々木一族の統轄を命じたものの効を奏せず、改めて翌年七月、半済令施行とあわせて六角千手丸を守護に再任し、二年後には千手丸の父氏頼を還俗させて守護に復帰させることによって近江国内の安定化を図ったのである。六角氏も半済地を給地として与えることで国内の国人・土豪層を被官化していき、その領国経営を進化させていった。