寺領の拡大

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中世、甲賀下郡において、天台宗の法燈をかかげて盛んであったのは長寿寺、常楽寺、善水寺などであった。このうち、長寿寺は「檜物庄内東別所」(『長寿寺文書』)の寺として栄えた。特に鎌倉時代には、武門の帰依が篤かった。
 たとえば、弘安(こうあん)のころ(一三世紀末)、「檜物庄内東別所」(長寿寺)に対し、「寺田段銭」が課せられようとした。寺では「先規無く候の由」を申し入れ、これに対し「御書」が下され、将来ともかかる公事(くじ)はないと、段銭の徴収は沙汰やみとなった。このことを伝えた「十二月十八日某書状」(年未詳)を寺は北条貞時(ほうじょうさだとき)から出されたものと伝えている。おそらく寺の由緒なども勘案されたのであろう。
 ところで、寺の由緒といえば、聖武天皇勅命、代々天下御祈願所、清和天皇の再興・勅願寺たる由緒にあわせ、寺領を保証する旨を述べた「寿永(じゅえい)二年(一一八三)二月二十四日源頼朝(みなもとのよりとも)長寿寺安堵(あんど)状」なるものが、長寿寺にあるが、これは文中に「其寺領東寺一円」と、戦国期にならないと出てこない東寺なる地名が書かれるなど、明らかに長寿寺を権威づけようとした偽文書である。
 弘安(こうあん)十年(一二八七)二月には、左衛門尉平某(さえもんのじょうたいらのなにがし)から長寿寺に、不断念仏田として一町歩の田地が寄進された(弘安十年二月二十一日「左衛門尉平某寄進状」)。寄進状には「社堂仏前において、不断(ふだん)念仏勤行のため、寄進せしむの状」とあって、長寿寺境内社(白山(はくさん)神社)の本地仏前で寺僧に不断念仏を行わせていたことがわかる。不断念仏とは、比叡山の常行三昧(じょうぎょうざんまい)に起源をもつ音楽性豊かな念仏で、すでに平安時代に地方の社寺に普及していた。

写40 平宗氏寄進状(『長寿寺文書』)

 降って、後醍醐(ごだいご)天皇によって建武の新政府が発足した直後、建武(けんむ)二年(一三三五)八月に平左衛門尉宗氏(むねうじ)が長寿寺の門前にある五反三〇歩の田地を同寺修正会(しゅしょうえ)の燈油田に寄進している。寄進の「意趣は天長地久、御願円満、また当家繁昌のため」であり、御願円満とは後醍醐天皇の新政の成就を祈ってのことと思われ、当家繁昌とは寄進者宗氏の家門の繁栄を指していた。また寄進状によれば、この燈油田の寄進は再寄進であって、「衆徒らの申さるる旨あるによりて、元の如く寄附せし」めたものだった。何かの事情で取り止めになっていたのを衆徒らの申し立てによって、元どおり寄進されたのである。
 この修正会は、寺院の法会の中でも、特に近在住民と関係が深いものである。年頭にあたって、一定の期間、庄内の安全と豊穣が祈願されるが、その結願(けちがん)日には種々の民俗的行事が行われるのが普通であった。長寿寺では鬼走りの行事があった。長寿寺修正会の鬼走りがいつ始められたか明らかではないが、他の例から推して、南北朝時代には行われていたと思われる。長寿寺には毘首羯摩(びしゅかつま)の作と伝える木製の鬼仮面一対が伝えられている。ちなみに常楽寺でも修正会があり、鬼走りが行われ、鬼の古仮面一対が伝えられている。
 さらに十余年後の貞和(じょうわ)四年(一三四八)三月、散位貞重(さんにさだしげ)が長寿寺内江山(こうざん)庵に「長寿寺名(みょう)年貢」を寄せ、「天寿地久、国土安穏、当庄無為(ぶい)」を願って、「祈祷精誠」をなすことを要請している(貞和四年三月日「散位貞重寄進状」)。貞重と記すのみであるが、上記の寄進者と同様に、「檜物上庄」にあって古くから長寿寺の外護者であった、平姓をもつ有勢の豪族であったとみてよい。

写41 鬼走り 毎年1月15日に長寿寺・常楽寺では1年間の無病息災と村内安全を祈る修正会が行われる。鬼走りは悪鬼を追い払う追儺の儀式としてこの修正会で行われるものである(写真は長寿寺の鬼走り)。