長寿寺の現本堂の建立年代は明らかではないが、建築上の様式、手法からみて鎌倉時代初期のものと認められ、この時期の代表的建造物のひとつとして価値が高い。
この本堂には、天井、屋根面の反転曲線などに古様が伝えられているが、内部構造で注目されるのは内陣が当初は土間であったらしいことである。当初の平面が内陣において土間形式となっていた痕跡が遺されているが、常楽寺本堂、善水寺本堂などは内陣が板張りであるのに対し、長寿寺のそれが古態を受け継いでいるのは貴重である。建造当初、内陣は土間となり、土壇の上に須弥壇が設けられたと考えられている。内陣が土間になっているのは延暦寺根本中堂、同講堂(焼失)、同横川中堂(同上)などきわめて少ない。
土間形式の内陣を板張りに改めた時期は明確でないが、須弥壇上の供物壇の裏面にある次のような墨書銘から、およその推測はつく。
当寺仏壇修造貞治五年 丙午 八月廿一日一和尚大門坊円範(花押)
時年行事 円稚 *
栄円了覚
*大工□(奈)良狛宗名(以上二人)
銘文に「当寺仏壇修造」と記されているので、貞治(じょうじ)五年(一三六六)に改造されたと考えられる。仏壇の格狭間(こうざま)の様式も鎌倉時代の次の時期とみられるので、南北朝時代に土間から板張りに改められたと推定される。
しかし一方では、現在の厨子に「文明(ぶんめい)十二年」(一四八〇)の墨書があり、後記のように弁天堂が文明十六年(一四八四)に建立されているので、文明年間に寺内の大整備があり、この時期に内陣の形式が改められたとする見方もある。
ともあれ、長寿寺にとって、鎌倉初期は寺観の一大整備期であり、現本堂の造営がその代表であった。長寿寺における堂舎の新築改修は文明(一五世後半)、天文(一六世紀前半)期へと続いていく。