創建後六十六年目の天文(てんぶん)十九年(一五五〇)に修理の手が加えられた。棟際〓板(こけらいた)にある
此上葺の事 天文十九年三月吉日
大久(工)ハ京の平岡孫兵へ(衛)、てま(手間)者以上参百人 南無阿弥陀仏
大久(工)ハ京の平岡孫兵へ(衛)、てま(手間)者以上参百人 南無阿弥陀仏
の墨書によってわかる。手間三百人というから、かなりの工事であったようである。天文の修理では丸桁(けた)上および軒廻りが直され、入母屋破風(いりもやはふ)を外に出し、妻勾配(つまこうばい)を急傾斜に改変しているという。その後の修理は延宝(えんぽう)五年(一六七七)にあった。このときは、弁才天像を別に京から買い求めたので、本尊が二体となり、そのため新しく取付仏壇(台座)と厨子(ずし)を設けたのである。弁才天台座の下に延宝五年の銘があり、藤岡坊聖実が弁才天代銀一枚、平松村の宮島清左衛門が台座代銀廿目、東寺村の青木奥左衛門が厨子代銀四十五匁を醵出したこと、また弁才天像は大津の森市兵衛、同森地藤右衛門、同藤田六左門、草津の田中九蔵、同内儀、かやしまの十郎兵へ(衛)たちが京都で購入し、長寿寺弁天堂に納めたことなどがわかった。福神としての弁才天信仰は室町時代に興起するが、長寿寺弁天堂の創建と維持は、当地方における室町時代から江戸時代にかけての弁才天信仰の展開を示す貴重な指標といえよう。また、長寿寺弁天堂が創建された文明年間(一四六九~一四八七)には、同寺本堂の厨子内部の墨書があり、また弁天堂周辺の池底から「文明六年」(一四七四)の銘がある鬼板断片が出ているので、文明期もまた長寿寺の室町時代後期における復興期であった。