大般若経の修理、流出

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聖教類の中で最も大部な経典は大般若(だいはんにゃ)経六百巻であろう。古代では官寺以下諸大寺で鎮護国家のため大般若会(え)が盛んに修せられたが、中世には、地方の寺社にあっても、土地の平安と住民の除災招福を祈って、大般若経の転読(てんどく)が神仏の前で行われた。
 長寿寺や常楽寺においても例外ではなく、祈願寺として大般若経の所有は必須であり、その補修には住民もまた協力した。大般若経の転読は寺院のみならず、住民の年中行事的な法会となっていたのである。
 吉川勝氏所蔵の享徳(きょうとく)二年(一四五三)八月の「檜物荘納米・下行状」によれば、油代、檜皮師賃、畳代などとともに「大般若修理賃」として六貫二百十九文が支出されている。東別所長寿寺でのたび重なる転読で損傷したのであろう。
 また、栗東町高野神社に蔵される松源院(しょうげんいん)版本大般若経は、もと長寿寺にあったものである。杉板製の経唐櫃(きょうからひつ)の身に、中世の文字で「長寿寺」と墨書され、また蓋(ふた)裏には
             士伝
         願主長香
             士級
     大永六年 丙辰 五月吉日
     (梵字)十六善神守護所
と書かれている。銘文によれば、大永(たいえい)六年(一五二六)五月、長香、士伝、士級らが願主となって経唐櫃一〇合(現在、内一合は転用箱)が作られ、これに伝来の大般若経が納められたことがわかる。なお十六善神守護所とあるが、十六善神とは般若経とその誦持者とを守護する善神で、大般若経会のときに祀られる。
 また他の蓋裏四面には、「安永二癸巳天五月、大般若経六百巻裏打修覆成就了」と、安永二年(一七七三)五月に全巻の裏打修覆が完了したことが記され、その時の住職(観成院誉章)、世話人(北村長九郎、常悦)、年寄年番(教真、山中又右衛門)らの名が書かれている。
 蓋裏の一つには「奉読大般若経六百巻」と書かれ、大般若経の転読を告げている。経は転読に便利な折本装であり、栗東町教育委員会の調査によれば、南北朝時代に印行された春日(かすが)版で、一部に室町時代の版本がまじっているという。この大般若経がいつ、どのような事情で長寿寺から流出したかわからないが、少なくとも戦国時代から江戸中期にかけての、約二世紀半にわたって同寺に存在し、住民の除災招福、庄内の安全のために、転読されていたのは確実である。

 


写43 松源院大般若経経唐櫃(栗東町高野神社蔵)
身(上)、蓋裏(下)