常楽寺は、行胤の造営後約二百年経って、雷火による一山焼失という深刻な事態を迎えたが、それまでの間、堂舎の増建、仏事の盛況などがみられ、天台宗寺院として繁栄した。
寺では、鎌倉時代の中期、亀山(かめやま)天皇の代(一三世紀後半、一二五九~一二七四)に官符が下され、「天長地久の寺院」(「二十八部衆勧進状」)となり、また「勅願寺に准據」(「常楽寺勧進状」)された、と伝える。
常楽寺文書に、五月三日(年不明)付の右少弁時熙奉(うしょうべんときひろうけたまわり)の綸旨案(りんじあん)があり、これを亀山天皇から賜わった官符であるとしている。内容は、炎旱のため水天供(すいてんく)を修せよというもので、西輪院谷(さいりんいんだに)の前大僧正宛になっているが、亀山天皇在位中の弁官に右少弁時熙なる人物はいない。この点で、まず疑問視される文書である。
とはいえ、鎌倉時代には、常楽寺が権勢者から祈祷を請われてもおかしくない寺院として成長していたことは確かであり、右に近い事実があったのかもしれない。
室町時代のことであるが、延文炎上後復興された観音堂(現本堂)の側面入側(いりがわ)に設けられた物置(米蔵として利用)の板戸に「文永 亀山百後」「仁平年中近衛院 及五百年」という落書がある。これは延文災上より五百年、百年前が当寺の歴史上画期であったとする中世の人びとの意識を反映したものである。五百年前とは行胤による造営を指し、百年前とは亀山天皇祈願寺ないし准勅願寺になったとする由緒を示している。
このような由緒、沿革は仏像造立や仏殿造営の勧進に当って特に強調され、鎌倉末期には皇室の祈願寺とする由緒が成立していた。寺僧によって常に語られ、寺の誇りとされていた寺伝が、さきのような落書となったのである。