二十八部衆の造像

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千手観音菩薩像の左右に、この菩薩の眷属(けんぞく)たる二十八部衆の群像を安置することになり、延慶(えんきょう)元年(一三〇八)六月、造立の勧進状が作成された。
勧進沙門敬って白(もう)す
特に十方檀那の助成を蒙り、[  ](二十八)部衆を造立し、常楽院本堂に安置せんと請うの状

(前略)今闕(か)ける所は二十八部の尊像ばかりなり。静かに以(おもんみ)れば、観音は衆生を擁護するなり。専ら威神を二十八部の霊徳に課す。衆生の帰依するは観音なり。みな利生を四七(二十八)部衆の権助に得る。ここをもって二十八部の尊像を造立し、千手千眼の左右に安置し奉らんと欲す。この願を発すと雖も、志ありて力なし。一鉢(いつぱつ)の底空しく三衣(さんね)の肩破れたり。もし諸人涓塵(けんじん)の助成を蒙らずんば、いかでか一身海岳の大願を遂ぐべけんや。これにより知識を十方に唱え奉加を望む(下略)。
  延慶元年六月十八日 勧進沙門[  ]敬□(白)

(原漢文)

 この勧進状には延慶元年六月十八日とあるが、延慶改元は十月九日で、六月十八日はまだ徳治三年である。冒頭の二十八部衆の五文字が書かれるべき箇所が一字分しか空いていないし、勧進沙門の名も書かれていないので、この勧進状は延慶改元後に月日を遡らせて書かれたと思われる。
 二十八部衆群像の製作は徳治三年(一三〇八)から正和(しょうわ)三年(一三一四)にかけての期間に行われたようである。このことは同像の胎内墨書銘によって裏づけられる。婆薮(ばす)仙人像には「とくち(徳治)三ねん八月廿二日」、摩和羅女(まわらにょ)像には「ゑんきゃう(延慶)三ねん八月廿八日」、多聞天像には「しゃうわ(正和)くわんねん(元年)十月十五日」、伽留羅(かるら)王像には「正和三年四月四日」の年紀が書かれている。

写44 常楽寺二十八部衆立像

 いま本堂本尊厨子の左右脇壇に二八体、外に風神雷神の二体を加えた三〇体が、一五体ずつ安置されている。この二十八部衆群像は重要文化財となっている。